戦後65年特別取材『戦争の記憶を継承する』【その2】
「なぜ戦争へ行ったんですか?」
「戦争は2、3日で終わると思っていたから…。」
戦後65年特別取材『戦争の記憶を継承する』【その1】に引き続き、65年前の女子高生が現代の女子高生へ伝える<いのちのメッセージ>を、屋宜ヒデさん(86歳)、金城郁子さん(86歳)、星野正子さん(85歳)、大川トヨさん(85歳)、仲西由紀子さん(84歳)が、当時の戦争体験の記憶を語り継ぎました。ずいせん学徒隊の貴重な証言をご紹介します。
●戦争に対して怖いという気持ちは?
星野「最初は怖いものとは思っていなかったです…」
屋宜「それは、日本があっちを占領した、こっちを占領したというニュース映画を見させられていたから。」
仲西「日本が勝つのが当たり前と思っていましたね。」
星野「戦争は2、3日で終わると思っていました。」
仲西「だけど最初に仲間が亡くなった時、戦争は怖いと思い知らされました。」
星野「あの時、はじめて“戦争で死ぬんだな”と思いました。」
大川「アメリカ軍はCレーションという携帯食の弁当を持っていて、それを負傷兵が拾って壕へ持ってくるんですが、その中身を見て『うちなー、負けとうやさ』と思いました。だって食べているものがまるで違うんだもの。」
屋宜「チョコレートとかビスケットとかインスタントコーヒーとか入っていたね。」
●負傷兵の看護はどんなものでしたか?
星野「ろうそくの明かりで手術するんですよ。後の方は麻酔はなかったです。」
大川「足を切ったりする人は生きなかったね。私がいた仲間分室では、顎がなくなっている人とか、おしっこを出せない人とかもいて、男性の大事なところに注射器を入れて尿を吸い取ったりね。女学生がですよ。重症患者はすぐに死にました。泣きました。みんな死ぬ時は『お母さん』って言って死んだね。沖縄の人なら『アンマーよ〜』って。一回だけ『照子』と奥さんの名前を言った人がいたね。『○○陛下万歳』と言って死んだ人は私は見たことがない。」
※ずいせん学徒隊は南風原、浦添という激戦地の野戦病院に勤務していた。
●南部撤退の状況
星野「識名に運ばれた重症患者は南部まで連れていけないので殺されました。独歩患者は私たち看護隊員が肩を貸して南部まで歩きました。これはきつかった。3日何も食べないで歩きました。」
仲西「サトウキビがあったから生きていられましたね。」
星野「食べてないのに、よく走れたなと思います。照明弾があがると砲弾が降ってくるので、それーって走って逃げて。負傷兵はひきずって。」
仲西「死体だらけでしたよ。お母さんが死んで、赤ちゃんが泣いているけど、私たちはどうにもできない。自分もいつかあぁなると。国のために死んだら、靖国神社に祀られるから死んでも心配ないと思っていました…。一発で死にたいと思っていましたね。中尉から手榴弾をもらい、ポケットに入れてずっと隠していた。手榴弾があるから、怪我しても自分で死ねる。この手榴弾が心の支えでしたね。みんな、首里にいるときは手榴弾を怖かったけど、島尻(南部)に行ってからはこれが助けになるからって、みんなが欲しがったね。」
星野「ずいせん学徒隊のほとんどが島尻へ行ってから亡くなりました。食糧は自給自足。お芋探したりして。他の壕のことや他の学校の学生はどうしてるか、全くわからなかったです。ひめゆりの壕は近かったのに、わからなかった。これからどうなるんだろうという未来の不安より、今、降って来る爆弾にやられる恐怖の方が強かったです。」
※ずいせん学徒隊は61名のうち33名が亡くなった。
●捕虜になった時は?
星野「みんなで手榴弾で死のうと言っていたときに、石川先生が手榴弾を取りあげて、一つじゃ全員は死ねないよって止めてくれて。よくあの時、先生と再会したなぁと不思議に思います。」
※ひめゆり学徒隊は教員の引率があったが、ずいせん学徒隊にはなかった。
大川「石川先生が壕に来なければ、私たち助からなかったよ。先生が大声で『出るよ、出るよー』と言って。あの時、壕内は燃えていたんですよ。」
※大川さんと星野さんがいた米須の壕は、6月23日、米軍に出入り口を包囲され火焔砲を撃ち込まれた。そのため手榴弾による自決も始まり、壕内は火や煙で充満し、「苦しい苦しい、死のう死のう」と女学生たちは自決したがった。しかし手榴弾は一つしかなく、石川先生の言葉に従い壕の外へ出た。
大川「人間は最後、水が飲みたいんですよね。壕から出て、水が飲みたいと水のあるところに向かっているときに捕まったんです。6月23日でした。」
●対談を終え、現代の女子高生たちは
新里「私は戦争を体験したおばあちゃんがいるのですが、思い出させるのはかわいそうと思って戦争について聞いたことはないんですが、戦争を知らない私たちは事実を知らないといけないと思うし、おばあちゃんにも戦争のことを聞いて、下の世代にも伝えていきたいと思いました。」
安谷屋「何もかもが私にとっては想像を絶することばかりで、今の私に何ができるのかとか、この対談でいろいろ考えさせられました。これからも戦争がどれほど残酷なものだったのかを学び、後世にも伝えていけるようにしたいと思いました。」
嶺井「話を聞いての第一印象は“戦争はホントに怖い”と思いました。目をそむけたり、聞きたくないという気持ちはあるんですが、ちゃんと向き合って知ることで、それを後世に伝えることで同じ過ちを繰り返さないというふうにやっていかないといけないと思いました。」
大岩「戦争の話は小学校の頃からずっと勉強してきて、体験した方から直接に話を聞くのは重みがあるので、いろんな人にも話をした方がいいと感じました。」
仲西「テレビなどで話を聞くと、戦争ってこんなものなのかなって知ったつもりでそう思っていたけど、生で話を聞くと今の私たちがその状況に出された時というのをリアルに実感できて、昔のことっていうよりは今につながる何かがあると思いました。」
戦争体験を共有する2時間半は驚くほどあっという間に終わってしまった。大岩さんが言うように、できるだけ多くの人に戦争体験を聞くチャンスを得てもらいたい。夢も青春も奪われた学徒兵を思えば無駄に生きてはいられない。そして多くの人々の犠牲者の上に築かれた現在の平和をしっかりと守ってゆかねばと、あらためて噛みしめた。この対談の模様は石山秀樹氏によってドキュメンタリー映像作品にまとめられる予定。
(→インタビュー記事【その1】を読む)
<参考資料>
●沖縄の学徒兵
学徒勤労動員令によりすべての学校の学生が戦場へと駆り出された。内地では大学生以上の学生だったのに対し、沖縄では根こそぎ動員が行われ、男子は14歳で通信兵、16歳以上の学生は鉄血勤皇隊として戦った。
女学生は看護隊員として負傷兵の看護や下の世話、手術の手伝い、炊事、死体埋葬など、様々な仕事をさせられた。
沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校(2校併せて、ひめゆり学徒隊)、県立第二高等女学校(白梅学徒隊)、県立第三高等女学校(なごらん学徒隊)、沖縄県立首里高等女学校(ずいせん学徒隊)、私立積徳高等女学校(積徳学徒隊)、私立昭和高等女学校(梯梧学徒隊)、県立宮古高等女学校、県立八重山高等女学校、県立八重山農学校(女子) 総計約600名が看護隊員として負傷兵の看護にあたった。
沖縄戦を知ることは、現代を生きる力につながる!
戦後65年 慰霊の日におくるオーディオ・ドラマと踊りの融合!
『ニイナとオジィの戦世 〜めぐりめぐるいのちの讃歌〜』
学徒兵の戦争を描いたファンタジック・ストーリーです。ぜひご家族でご覧下さい!
『ニイナとオジィの戦世 〜めぐりめぐるいのちの讃歌〜』
6月23日(水)19時 パレット市民劇場
出演:池田卓、高良結香ほか
※詳しくはウェブ・サイトで!
http://www.niinatoojii.com/
(取材: 鍵山直子(脚本家)、編集: KUWA)
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