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戦後65年特別取材『戦争の記憶を継承する』【その1】

戦後65年特別取材『戦争の記憶を継承する』【その1】
今は無き県立首里高等女学校(ずいせん学徒隊)の元女子学生と首里高等学校染織デザイン科女子学生が<沖縄戦について>対談するという企画が先日行われた。
今年は戦後65年。看護隊員として戦争に駆り出された人々も高齢となり、直接戦争体験を聞くことが難しくなってきている。若者たちへ戦争体験の記憶を引き継ぐチャンスは今しかないのでは?そんな想いから、看護隊員をテーマにビデオを自主制作してきた東京在住の会社員・石山秀樹氏はこの対談を企画。彼の熱き想いのもと10名の乙女たちが集まり、2時間を超える対談が行われた。65年前の女子高生の戦争体験を現代の女子高生たちはどんな想いで受け止めたのだろうか?

●学徒隊の名称『ずいせん』とは?

星野「もともと県立首里高等女学校は首里城内にあって、こんこんとわき出る瑞泉の泉がいつまでも絶えないようにという意味で『ずいせん同窓会』を使っていました。戦後になって、首里高女の看護隊のことを『ずいせん学徒隊』と呼ぶようになったのはそこからです。」
※学校ごとに『ひめゆり学徒隊』『白梅学徒隊』などがあるが、いずれも戦後になってから名付けられた。
右から、屋宜ヒデさん(86歳)、金城郁子さん(86歳)、星野正子さん(85歳)、大川トヨさん(85歳)、仲西由紀子さん(84歳)<br />
●当時の暮らしぶりは?

星野「戦争が始まる前の昭和14、15年から配給制でした。南風原とか西原とか遠くから首里まで徒歩で通っている人も多くて、みんな裸足か下駄で来て、学校で靴に履き替える。次の配給までもたせるためです。物資不足だったからね。」
金城「映画も禁止されていたね。」
星野「歌謡曲を歌うのもダメだった。先生来ないか、見張って歌っていたね。」
屋宜「喫茶店も。」
金城「コンブがごちそうだったね。」
星野「大学芋が人気で、でも買うのを見られたら怒られるから、みんなで見張ってね。心配で一人では買えなかった。とにかくおなか空いていました。」
屋宜「道ですれ違っても姉弟でも会話ができなかった。世の中の風潮として男女が会話することは許されなかったから。だから恋愛なんてなかったですよ。」
星野「恋愛どころじゃない。毎日作業でしたよ。昭和16年に入学したらその年の12月8日に戦争が始まっちゃったから。だから勉強したのは2年くらいで、あとは作業ばかり。朝5時頃から起きて、歩いて小禄まで行って、飛行場を作りました。スコップで土をモッコに入れて、それをかついで。男子は読谷まで飛行場を作りに行っていました。」
金城「日本軍の将校たちが、家の中にいて、同居させられてました。」
星野「日本軍は学校の校舎を兵舎にして寝泊まりしていて、私たちは教室がないので、公民館へ行って授業していました。」
左から、新里さん(3年生)、安谷屋さん(3年生)、嶺井さん(3年生)、大岩さん(2年生)、仲西さん(2年生)
●看護教育について

大川「十十空襲後、一旦はそれぞれの郷里に帰るように言われて、みな里帰りしたんです。」
星野「でも1月になって学校に戻るように召集がかかった。校長先生が、これから4年生は看護教育が始まるからと。どこの学校から何名、看護隊に出すと決まっていたみだいですね。」
仲西「だから校長先生は、疎開はするな、女性は国のために働きなさいと。」
星野「校長先生は女学生を戦争に出すことを反対していたけど、軍は女学生をつぎ込まなければ足りないことはわかっていたから。先生方も苦しかったんだね。」
大川「こんなに分厚い本を読んでね、看護を勉強しましたよ。」
星野「3ヶ月、勉強しましたね。」

●何になりたかったですか?

戦後65年特別取材『戦争の記憶を継承する』【その1】仲西「あの当時は夢は描けなかったです。」
大川「私は学校の先生。もう就職は決まっていたから。」
星野「1月からはあきらめていました。看護婦するしかないなと。」
屋宜「私は戦争には自分なりに参加したいという気持ちはありましたよ。だから軍属になるための受験をしました。落ちてしまったけど。」

●なぜ戦争に行ったんですか?

仲西「お国のために働くべきだと。そういう教育をされているから、疑わなかったですね。」
星野「今の北○○みたいなね。自分の子供にもどうしてお母さん戦争に行ったの?って。だけどあの時、反対して何か文句言ったら、すぐ国ににらまれる。自分だけじゃなく、あそこの家はみなアカだと言って、いじめられることになる。全体責任を取らされるんですよ。社会主義のような本を読んだだけでアカだと言われる時代でした。」
仲西「親も内心は戦争に行くのを引き留めたかったでしょうね。」
星野「きっと簡単に戦争は済むと思っていたから、これが親との最後の別れだとか、そういう不安は無かったですね…」(つづく)

<参加者>
県立首里高等女学校 ずいせん学徒隊・同窓会(写真右から)
屋宜ヒデさん(86歳)、金城郁子さん(86歳)、星野正子さん(85歳)、大川トヨさん(85歳)、仲西由紀子さん(84歳)

首里高等学校 染織デザイン科(写真左から)
新里さん(3年生)、安谷屋さん(3年生)、嶺井さん(3年生)、大岩さん(2年生)、仲西さん(2年生)

<参考資料>
沖縄の学徒兵
学徒勤労動員令によりすべての学校の学生が戦場へと駆り出された。内地では大学生以上の学生だったのに対し、沖縄では根こそぎ動員が行われ、男子は14歳で通信兵、16歳以上の学生は鉄血勤皇隊として戦った。
女学生は看護隊員として負傷兵の看護や下の世話、手術の手伝い、炊事、死体埋葬など、様々な仕事をさせられた。
沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校(2校併せて、ひめゆり学徒隊)、県立第二高等女学校(白梅学徒隊)、県立第三高等女学校(なごらん学徒隊)、沖縄県立首里高等女学校(ずいせん学徒隊)、私立積徳高等女学校(積徳学徒隊)、私立昭和高等女学校(梯梧学徒隊)、県立宮古高等女学校、県立八重山高等女学校、県立八重山農学校(女子) 総計約600名が看護隊員として負傷兵の看護にあたった。


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6月23日(水)19時 パレット市民劇場
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http://www.niinatoojii.com/

(取材: 鍵山直子(脚本家)、編集: KUWA)


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Posted by ryuQ編集室 at 2010年06月08日   09:00
Comments( 1 ) 戦争と平和
この記事へのコメント
あなたのブログは非常に素晴らしい
Posted by แทงบอลออนไลน์ at 2011年03月08日 06:09
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