登川誠仁インタビュー【前編】

ryuQ編集室

2010年06月24日 09:00


沖縄民謡界の第一人者・登川誠仁さん(77歳)。若い頃から、三線の早弾きの名人として知られ、三板、太鼓の達人でもあり、誠小(セイグワー)で親しまれる登川誠仁さんに、昔話から最新作の『歌の泉』まで様々なお話を伺いました。スペシャルロングインタビューを【前編】と【後編】の2回にわたってお届けします。(※ビデオメッセージ付き)

——もう最近ではお酒は全然飲んでいないんですか?

登川誠仁:うん、酒というものは、人の飲むものじゃないよ(笑)。若い時分にはよく飲んでいたけどね(笑)。

この前の舞台では、「酒をとめたのではなく、もうやめた」とお客さんに言ったわけ。

酒を飲まんから、声は出るでしょう。17〜18歳頃の元の声に戻ってね。

——お酒を飲まないほうが、より声が出るんですね。

登川誠仁:本当は酒のせいじゃなくて、睡眠不足とかね、こんなもんだよ。

私は酒を飲んだら、なかなか寝ない。前に伊江島に行って、家に戻ってくるまで3日くらいかかった事があった(笑)。

ここコザから嘉手納へ行き、そこから石川の飲み屋に行って、そして金武町まで行って、そこには名護の人がいるもんだからさらに名護まで行くことになってね。その帰りに本部に寄ってそこで伊江島の船を持っている人がいるもんだから、伊江島に渡って。すると伊江島には私がエイサーを教えたことがあるものだからね、そこで2日くらい居て、3日目に家に電話したら、
「お父さん! 今、どこに居るね?!」と聞かれたので「伊江島」と答えたら、「えぇ!早く帰ってきなさい!!」ってよ(笑)。こんな事もあったね。

——この前、新譜『歌の泉(ウタヌイジュン)』を出されましたよね。その時のレコーディングでは、お酒もやめて喉がとても良いコンディションで録音ができたのですね。

登川誠仁:私は、毎回レコーディングする度に違う。民謡というものはそうでなくてはいけないんだ。それは、よその地域に行ったらその地域の歌い方に合わせて唄ってしまうもんだからね。たとえば、八重山行ったり、宮古行ったりした時にはね。

とくかく、今回調子が良かったんじゃないか。

それから、太鼓。民謡は太鼓が良く響いたら、太鼓に合わせて唄も三線も大きく良く響き華やかになってくるわけ。それがないとね、民謡じゃないんだ。

こんどのアルバムの囃子も含めてね、太鼓というのは気合いを入れて叩くものだからね。普通の叩き方ではだめだ。太鼓がいいと、こっちもウキウキしてくる。

三板もね。30年ほど前の国際通りの国際劇場で、着物をつけ舞踊の踊りと一緒に手の組み合わせして。舞踊の先生達がやるのがとても面白くて、だからこっちもカチャーシーがどう出てくるかわからんしね。

たしか、国際劇場の30周年だったと思うんだが、小那覇舞天先生が「あなたも国際劇場の舞台に出てくれないか」というものだから、背広の代わりに米兵の軍服を直してね、それを着けて出た。

この舞台の時まで、三板(さんば)というのを私は見たことが無かったので、“三板は=産婆さん”だと思っていた。だから、小那覇先生が三板の名人と聞いて、
「あのおじいがですか?」と訊いてしまった(笑)。

一同:(笑)。

登川誠仁:この時に、「三板は面白い」と思って、うちの近くに三味線屋があって、そこで、仲村タンメーという泡瀬の方が詳しいからといわれてね。

最初の頃、三板は竹で作っていた。竹は、内側と外側で音の鳴りが違うわけ。で、この人が、素材を木にしたわけ。三線の棹を作った残りの木で三板を作ってね。

作り方を教わって、ひとつは弟子の田場盛信に作った。それを田場盛信は今でも持っているよ。わしのは酒を飲んですぐ無くすクセがあるから部屋の中に掛けているよ。掛けていると歩いては行かないから(笑)。

——その時は、ご自身ではまだプロになろうとは思っていなかったのですか?

登川誠仁:全然。三線弾いてからあちこち行くなんて思っていなかったし、だが、いろんなところから、あっちの島に行ってみようか、こっちの字(アザ)に行ってみようかと。あちこちの芝居の地謡を加勢したりして、ほかの劇団から「こっちは倍払うから来ないか」と引き抜かれたりしていたけど、これも一時の話でよ。お客さんの入りが悪かったら払ってくれない(笑)。その時代の芝居で流行った歌が『二見情話』とかでよ。

——戦後の芝居は、野外とかでやっていたんですよね?

登川誠仁:雨が降ったらもう出来ないわけ。舞台の上はテントがあっても、客席は青空のまま。客席と外との境界は囲ってね。

——当時、どういう芝居が一番盛り上がっていましたか?

登川誠仁:大人は悲劇ものを楽しみにしていたし、若い連中は涙ものはあまり求めていなかったしね。だいたい喜劇。
でも、すべての劇団が喜劇の演目を持っているわけではなかったからね。

あの頃は、沖縄ではアカマルソウの民謡大会とかカチャーシー大会とか、那覇の栄町に沖縄劇場であってよ。

座長に「今日は、沖縄劇場で、カチャーシー民謡大会があるので休ませてください」というと、彼はわし贔屓で、「はい、それじゃ今日は芝居休み」と言ってよ、休ませてくれたわけ。

民謡のほうは嘉手苅林昌が優勝して、早弾きは私が優勝して、賞品は、アカマルソウの味噌がたくさんあるし、毛布とか。もらった賞品は、座長が「ありがとうね」と全部持っていったよ。

それから芝居の前に、客を集めるために唄三線を歌ってよ。アカマルソウの大会で優勝した早弾きもなんでもできる唄者が歌うということでお客さんも集まってよ。座長が儲けは半分にしようと言ったけど、私はいらないと辞退してよ。芝居役者の生活や劇団の運営のほうが大変だからね。お金が入っても、それを料亭に連れて行って奢って使ってしまうわけで、あの時代の役者はみんなルンペンのようなものだったよ。

——その大会で優勝した曲が、いろんなアルバムにも収録されている『アッチャメー小』だったりするのですか?

登川誠仁:うん。早く弾くのは『アッチャメー小』だったね。

ラジオ番組で「『アッチャメー小』とはどういう意味ですか?」という質問が来たので、「意味がわからなければこの曲をするのはやめなさい」と言っておいたんだがね(笑)。

それから、ある人がうちに訪ねてきて、「カチャーシーの名人の誠小(セイグワー)という人物がいると聞いたんだが、あんた知らんかね?」と言われたよ(笑)。
それが、沖縄音楽の研究家で作曲家の山内盛彬先生だったよ。
(※山内盛彬氏とは『ヒヤミカチ節』や『屋嘉節』など数多くの名曲を生んだ著名な作曲者でもある)

「あんたにぴったりの歌があるから、教えようと思って来たよ。あんたはどんな三線を弾くのか聴かせてくれ」というので夜中の12時くらいまで弾いて聴かせたよ(笑)。
ご飯も食べて帰っていったのだが、結局、私に何の曲を教えに来たのかね(笑)。その時はわからなかったよ…(つづく)



登川誠仁、一夜限りのコンサートが東京で開催決定!
 チケットは前売り400枚限定!
日時:2010年8月29日(日)
開場:17:00 開演:18:00 
前売:4.300円 当日:4.800円(全席立ち見、入場整理番号付き、ドリンク別)
※6/20よりチケット発売中!
(お問い合わせ&チケットご予約)
EATS and MEETS Cay:東京都港区南青山5-6-23スパイラルB1F
ローソンチケット:0570-084-003(Lコード:71195)
※さらに詳しくは、リスペクトレコードHPへ。
http://www.respect-record.co.jp/topics/res163concert_cay.html


(取材編集: KUWA、取材協力: シャララカンパニー、リスペクトレコード)

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