旧盆が終わり、沖縄の夏の風物詩・エイサーのシーズンもそろそろ終盤に近づきつつありますが、ところでエイサーをこの期間に限定したのは、いったい誰でいつ頃のことだったのでしょうか? 沖縄の伝統的な旧盆行事であるエイサーにも起源はあり(前回、
特集『エイサー起源』でご紹介した通り)、そのエイサーを旧盆時期のみと期間限定にしたのは、実は意外なところから発せられたものでした。
「偽念仏は七月十三日から十六日まで盆の期間だけを許可する」というような内容の通達を出したのは、1609年に琉球を支配した薩摩(島津)でした。当時、薩摩のいう偽念仏とはエイサーのことを指しています。
エイサーは、東北出身の浄土宗のお坊さんであった袋中上人(たいちゅうしょうにん)が1603年に琉球に辿りつき、滞在中のわずか3年のうちに、琉球国王・尚寧(しょうねい)からの帰依を得て、
浄土念仏の布教のため琉球の念仏踊りとして誕生したものでした。
また、エイサーが誕生して間もない頃の琉球は、大転換期に突入する直前の頃でもありました。
袋中上人が帰京してから3年後、琉球王国は薩摩に侵攻され、尚寧王をはじめ高官など200名余りが捕虜となり、徳川二代目将軍・秀忠のもとまで江戸へと連行されてゆくことになります。
その江戸上りの往来の途中京都で、尚寧王は接見にきた袋中上人と再会することに。
その時、尚寧王と袋中上人はどんな言葉を交わしたのかはわかりませんが、軟禁された2年間に尚寧は『袋中上人肖像画』を描き、のちに琉球への帰郷を許されたあと、その肖像画を袋中上人のもとに贈ったといわれますから、深い信頼関係があったに違いありません。(尚寧王の描いた『袋中上人肖像画』は、現在京都国立博物館に収蔵)
袋中上人が琉球に残したものは、エイサーのほかにも、王府からの依頼で『琉球神道記』や『琉球往来』を執筆しています。『琉球往来』については、初学者向けの教科書のような書物になるはずでしたが、そこには袋中上人が見聞きしたことが書き記され、その中には武器の数量などまでが記録されていたといいます。
当然、発行されることは無くなったようですが、王府内では、袋中上人の密偵説まで浮上してしまったようです。
薩摩からの密偵説といえば、袋中上人の来琉以前から琉球に辿り着いていた人形師の京太郎(チョンダラー)たち。袋中上人が帰京後、エイサーをニンブチャー(念仏者)として琉球各地に広めた彼らもまた疑われたりしました。
エイサーが誕生してそう何年も経たない頃、琉球は激動の時代のなかにあったのです。
来年の2009年は薩摩侵攻から400年目にあたります。そんな今だからこそ、エイサーがはじまる頃の原姿の姿をまた思い浮かべてみるのもいかがでしょうか。
今週末は、仲順流りの里・北中城村の『北中城まつり』で、伝統的な京太郎芸能である『泡瀬の京太郎(チョンダラ−)』(沖縄市泡瀬)や『高志保の馬舞』(読谷村高志保)などが鑑賞できるほか、北谷町の『ふるさとエイサーまつり』でも、現在の県内各地の青年エイサーなど(伝統芸能ほか)をご覧頂くことができます。