「ハンセン病だった私は幸せ」金城幸子インタビュー[後編]
『ハンセン病だった私は幸せ』を出版された金城幸子さん。彼女にインタビュー中、何度も「見えたり聞こえたりはしないが、神様に助けられて生きてきたとしか思えない」と繰り返すほどの壮絶な人生。
どんなに困難であっても、前に向かって生き抜こうとする金城幸子さんの言葉や表情は、元気な力に溢れ、そしてあたたかい。時折涙を流しながらも言葉を続けようとする金城幸子さんからのメッセージをお伝えしてゆきたいと思います。
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インタビュー[前編]に引き続き、本日いよいよ[後編]を公開)
●9歳で完治していたのを知らず、その後、50年間も苦しんだ
——病気と戦いながら、子供の頃の愛楽園での生活について
幸子さん:学校に行く前に治療室でプロミンという薬を注射してもらう治療を1年間程度続けた結果、顔のコブのような腫瘍や、腕のまだら模様もきれいに治りました。でも注射の跡は、今でも残っていますよ。
愛楽園では、子どもたちは幼稚園から中学生までが一緒の建物に暮らし、症状の軽い人が寮父さん寮母さんになり、親のように面倒をみてくれました。
小学生の頃は、海で泳いだり工事の後の小石拾いなどの手伝いをしました。中学生になると思春期になり、自殺も考え実行しようとしましたが命を自ら絶とうとしてもどうしてもダメでした。神様が引きとめたのかもしれません。
今こうやって生かされていることを考えると、そう思えてしまうのです。
●育ての母との再会。
——生き別れとなった育ての母との再会は実現しましたか?
幸子さん:中学2年生の時、与那国島から久高島に戻った母が面会に訪れました。なかなか素直に再会を喜べない私を、しっかり抱きしめてくれました。
実は与那国で私と別れた後、育ての母は毎日のように船が出た港へと行き、白い手ぬぐいを振って泣いていたそうです。
この話はあとで他の人から聞いて知ることになります。私のことを捨てたと勝手にそう思いこんでこんでいたのですが、その話を聞いたときに、そこまで想って愛してくれていた育ての母に、ただただ感謝するばかりでした。
——また友人にも恵まれたそうですね?
幸子さん:愛楽園での共同生活の中で、とても仲良しな友人も出来ました。彼女達がいるから、今の私がいるようなものです。時々、監視の人の目をかいくぐり、友人達と脱走して家にしばらく滞在してから戻り、寮父さんや寮母さんに叱られたりもしました。中学生以上の大人だと、懲罰室に入れられたそうです。
高校受験の時、親友と県外の高校を受験しました。いろいろな困難を乗り越え、初めて列車に乗ったときのことは今でも忘れられません。乗せられたのは最後尾の貨物車。そして、横には「強烈伝染病につき注意」の幕が張られていたのです。「自分の病気はこんなに嫌われている」と感じ、とても悲しくなりました。
——とても辛い思いをされたのですね……。就職もされ、結婚されて、お子さんを出産されるときもかなり悩まれたようですが。
幸子さん:夫にはなかなか打ち明けられず、隠れて子どもたちに予防接種をしたりもしました。
そうしているうちに、自分の腕に斑紋が現れ、愛楽園に再度入所し、治療することになりました。後で分かったのですが、これは治療薬の副作用で病気の再発ではなかったそうです。
のちの裁判の時、9歳で受けたプロミン注射で完治していたことが判明しました……。完治しているのに、その後50年間も、病気の再発を恐れて生活していたことになるのです。
●国家賠償訴訟との関わり
——ハンセン病違憲国家賠償訴訟に原告副団長として、番号ではなく勇気のいる実名で挑まれましたが、周囲の反応はいかがでしたか?
幸子さん:番号ではなく、実名にしたのは娘からの提案でした。
「母さんのように、当事者として、経験した人が伝えなくて、誰が亡くなった人たちの想いや歴史を伝えるの?下手でもいいから、真実を訴えればいい。孫の為にもがんばって!」といわれ、夫や息子にも一緒にがんばろうと励まされました。
同じ病の人でも反対の立場の人もいたり、裁判に関わるのを嫌がり離れていった親戚もいますが、入所しているお年寄りからは「幸子がやっていることなら正しい」と激励されました。そして、全国各地から応援に駆けつけてくれた人々の想いが大変励みになっていったのです。
裁判勝訴の後、国の控訴を断念するようニュース番組で呼びかけたときは、とても緊張しながら
「難しいことはわかりませんが、首相も人の親なら、私達の気持ちを理解し控訴はしないでしょう」と、想いをしっかりと伝えさせて頂きました。
その後、国は控訴を断念しました。この裁判で様々な出会いをしましたが、いつも私は行く先々でいい人たちとめぐり会えます。人からは、“能天気だから〜”なども言われますが、
きっと、目に見えない神様がいて、試練を与えられ、それを乗り越えたから、多くのすばらしい出会いが出来るのだと思っています。
●さまざまな苦しみを乗り越え、ハンセン病であった自分が幸せだと考え、人と関わりながら“語り部”として活動を続ける事
——裁判後、“語り部”として講演を続けられていますが、講演先での子供たちには何を伝えたいですか?
幸子さん:様々な場所で講演を行っていますが、いまだに病気がうつると思い込み、講演会に参加させるのを渋る親御さんがいるのも事実です……。
でもある場所では、小学生が「幸子おばぁ、苦しかった分、元気で長生きして幸せになってね」
と言ってほっぺたをくっつけてきました。こういう反響があればあるほど、この子どもたちに何か残せるよう、語り部としての活動を続けていく力が湧いてきます。
現代は、家族の絆の大切さを訴える必要に迫られている時代ですが、そのもろさもハンセン病を通して自分は体験しています。大切なのは、何よりも“心のつながり”なのだとも強く感じています。
最近では、いじめなどで悩む子達も多いでしょうが、“人は皆、父と母が愛し合った結晶で母の胎内に10ヶ月間も入り、かならず必要な人間としてこの世に生まれてきている”んです。
“生きていさえいれば、必ず幸せは訪れます”。
もう今では、ハンセン病に愛しささえ感じますよ。なぜなら、この病気にならなければ、こんな多くの出会いもなく、ハンセン病だけでなく、HIVなどの病気や様々な差別と偏見について、ここまで深く考えることも無かったでしょうから。
今後もさまざまな出会いを続けながら、ハンセン病を乗り越えた当事者として、“語り部”としての活動を続けていきたいと思います。
※新刊のご案内:
『
ハンセン病だった私は幸せ』
子どもたちに語る半生、そして沖縄のハンセン病
金城幸子・著
A5判182頁 定価1470円(税込み)
金城幸子さんの“生”が詰まった一冊です。
※ボーダーインクHP:
www.borderink.com/
(文:Yoko Kosuga、編集+写真:KUWAこと、桑村ヒロシ)
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