「ハンセン病だった私は幸せ」金城幸子インタビュー[前編]

ryuQ編集室

2007年05月24日 00:00


笑顔で「はじめまして」と、待ち合わせた沖縄愛楽園にご来園された金城幸子さん。
彼女は、ハンセン病に対する偏見や差別、数々の苦難を乗り越え、現在はハンセン病回復者の“語り部”として、全国で精力的に講演活動を行っています。
今年5月、彼女の半生を綴った『ハンセン病だった私は幸せ』(ボーダーインク刊)が出版され、反響を呼んでいます。
本の発売直後に、出版するまでの経緯とその想いを語って頂きましたので、今日[前編]と明日[後編]の2日間にわたって連載でお届けします。

同じ病にかかりながらも必死に出産をした生みの母、父への想い

——ご両親は、大変な苦労をされて出産に挑んだそうですね…。

金城幸子さん(以下幸子さん):生みの母と父は、兄と私を生む前から、ハンセン病にかかっていました。当時は、この病気が遺伝すると考えられていた為、出産は許されず強制的に堕胎が行われていました。しかし、両親は子どもがどうしても欲しかった為、必死に努力し、ハンセン病に大変理解のあるハンナ・リデルというイギリス人が作った私立病院の回春病院(熊本県)に逃げ込み、無事に兄と私を生むことが出来ました。この世に生を受けられたのも両親のおかげなので、とても感謝しています。

——その後、沖縄に戻った後、台湾に渡られたそうですね?

幸子さん:兄が生まれた頃、沖縄本島にハンセン病患者の療養施設・国頭愛楽園(のちに沖縄愛楽園)が設立されました。療養所の建設にあたっては、沖縄ではどの地域でも、住民の反対運動が強く行われ、患者たちが身を寄せ合った住居が焼き払われることもあったそうです。

回春病院のハンナ・リデルさんから、沖縄本島のハンセン病療養所設立を託された青木恵哉さんは自らもハンセン病でありましたが、沖縄県内の患者を訪ね歩き、救済しながら積極的に設立への活動を行いました。無人島のジャルマ島に隠れ住んだ時は、水が無く大変苦労したそうです。その後、沖縄MTL(※1)の地域住民への説得と医療面での協力もあって、屋我地島に療養所は誕生しました。今は国立ですが、患者自らの手で設立された療養所は全国でも沖縄愛楽園しかないそうです。

私達家族は、沖縄で療養する為に愛楽園を訪れましたが、赤ん坊である私は受け入れる事が出来ないといわれてしまい、親戚にも頼みましたが断られてしまいました。
当時、台湾には日本政府が作った療養所があったので、やむなく台湾に渡ることになったのです。
(※1沖縄MTL=Mission to Lepersの略。ハンセン病患者の生活救護を目的に昭和10年に設立)


——そのあと、お母さんの病状が悪化し、家族が離れ離れに…?

幸子さん:父は市役所で働いていましたが、母は症状が悪化した為、療養所に入所が決まりました。
兄は5歳、私は2歳ぐらい。幼い子どもの世話をしながらでは生活が出来ないと、父は私達を沖縄に送り返すことになりました。母は療養所で亡くなってしまうので、この別れで母とは2度と会えなくなってしまいました。生みの母の記憶がない私は、母は自分を捨てて台湾に行ったと思い込んでいました。でも母と同じ療養所にいた人から当時の母の様子を聞き、私達兄妹のことを思い、毎晩独りで泣いていた、という話を聞き、憎むのは間違いと気が付きました。
必死に生み育て、守ろうとしてくれた母には感謝の気持ちでいっぱいです。

父の実家に引き取られた後、祖母により、兄は糸満売り(前借金と引き換えに子どもを海人のもとで年季奉公をさせること)、私はハンセン病患者に託され、兄妹は離れ離れになってしまいました。

久高島の神人である育ての母。その出会いと島での生活

——そこで、育てのお母さんとの出会いがあったのですね?
幸子さん:そうです。栄養失調で、ガリガリに痩せていた私を久高島へ連れ帰り、育ての父とともにまるでわが子のように大切に育ててくれました。

おかげで体力もつき、元気にもなりました。幼稚園にも通い始めた頃、実の子ではないと、いじめられることもありました。そんな時、母が私の手をしっかり握りながらいじめた子の家を訪ね、静かにたしなめた言葉を今でも覚えています。
「わーが なちょーる わらばーやるむんぬ、ぬーんち いったーや どぅぬわらばーかい ゆくしむにー ならーする?」
(私が生んだ子どもなのに、どうしてあなた方は自分の子どもに、嘘を教えるのですか?)
血のつながりのない私に、こんなにも愛情を注いでくれた母は、本当にすばらしい人だと今でも思っています。

時代のせいではない、「“無知”が一番恐ろしい」

——幸子さんがハンセン病を発症したのは何歳ですか?

幸子さん:8歳の頃で、育ての母が再婚する為に移り住んだ与那国島です。それまで離れずに寄り添って生きていた母と別れ、久高島に戻り療養を続けていましたが、うつると思い込み誰も近寄らず一人きりで遊んでいました。その後、知念の病院に移りましたが、台風の被害にあい、九死に一生を得てなんとか生き残りました。しかし症状がひどくなり、愛楽園での治療が決まりました。

この時、手当てをしてくれた看護師さんが、虫の湧いた足の手当てをしてくれた後、ぎゅっと抱きしめてくれました。
他の誰もがハンセン病患者に対して近づこうとしなかったのは、正しい知識が無かったせいですが、“無知”は一番恐ろしいものだと考えます。

“「時代のせいだから」というのも違う”と思います。“頭だけでなく、相手の立場に立ち、心で理解”しなければなりません。
(後編に続く)

(文:Yoko Kosuga、編集+写真:KUWAこと、桑村ヒロシ)
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