エイサーのはじまりは念仏踊りから。
今年の旧盆は8月13日・14日・15日(旧暦では7月13日・14日・15日)と、新暦のお盆と重なりますね。沖縄の旧盆といえば、エイサー。今回は、そのエイサーの起源を訪ねてみました。
旧盆に地域の青年たちを中心に賑やかに行われる七月エイサーは、元々は念仏踊りにルーツがあるといわれます。その起源については17世紀の頃に遡ります。
1603年、浄土宗の高僧・袋中上人(たいちゅうしょうにん)は、経典を得るため中国(明王朝)を目指し、その途中で琉球に辿りつき、3年間琉球に滞在しました。袋中上人とは琉球王朝の歴史書『琉陽』巻4などにもその名が記録されている高名なお坊さんです
(『琉球神道記』『琉球往来』の著者としても知られる)。
当時の琉球王朝の国王・尚寧(しょうねい/第二尚氏王統)に深い帰依を得て、現在の那覇市松山に桂林寺が建立されました。そして本来のエイサーはここから本格的にスタートしていくことになります。
琉球と仏教
ところで、念仏踊りといえば仏教ですが、琉球古来の信仰があるのに“琉球に仏教”とは意外に思われるかもしれません。じつは、袋中上人が琉球に辿りつく400年程前の英祖王の時代(13世紀)から、すでに仏教は伝来していました。
また、琉球の国王が仏教を認めたというのもその時代に始まったことでは無く、第一尚氏王統の尚泰久(しょうたいきゅう)王の時代(15世紀)から、いくつもの仏教寺院が国策として建立されていました。琉球の三大寺として知られる円覚寺は第二尚氏の菩提寺とされていたほど、中世の琉球には仏教があったのです。
袋中上人が琉球で浄土念仏の布教をする際、お盆の由来となる『盂蘭盆経』(うらぼんきょう)の中に“母への感謝(親や先祖への感謝)”が説かれたものがあり、それをわかりやすく伝えるため歌にした『継母(子)念仏』(ままうやにんぶち)。そして袋中上人の出身である東北地方(現在の福島県磐城市)の念仏歌であったジャンガラ踊り(念仏踊り)をヒントにして作られたのが、エイサーの原形となりました。
(また一説には、琉球王府が発刊した『おもろそうし巻14』の『ゑさおもろ』の節がついたものという説もありますが、内容が念仏歌に通じるものでは無いとの見解もあるようです)
現代の旧盆にみるエイサーの原姿は
現在では、『継母念仏』の歌詞の内容が残っているのは石垣島のアンガマなど、エイサーとはまた違ったかたちの地方の旧盆行事のなかに少し見受けられる程度です。
エイサーでは『仲順流れ』(ちゅんじゅんながり)がその流れを組むものとされていますが、現代に歌われる歌詞の内容は本来の『継母念仏』の通りではありません。
また、『仲順流れ』の歌詞の中に「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏(なむあむねぃんぶち…)」と唱えているのは、今では嘉手納の千原エイサーなどにわずかに残っている程度です。
(千原の集落のルーツは首里(那覇市)の士族出身者の集落でした。集落は沖縄戦で米軍に捕られ失いましたが、今も伝統のエイサーの型を守り継いでいます)
エイサーといえばコザなど中部のイメージが強かったかもしれませんが、じつは発祥地は那覇ということ。
そしてエイサーの始祖は、東北出身の仏教の僧侶であったということ。
事実は意外にも思えるかもしれませんが、そのルーツを辿ることで様々な再発見があることでしょう。
袋中上人の桂林寺があったといわれる松山公園(那覇市松山1丁目)には、袋中上人が来琉して400周年の記念に建立された記念碑(袋中上人行化碑)があります。
現代のエイサーが多様化しているこの時代だからこそ、あらためてエイサーの原点(魂)を見つめてみるのもいかがでしょうか。