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沖縄ジャズ物語(1)「屋良文雄インタビュー」前編

屋良文雄インタビュー
半世紀の時を経て、沖縄JAZZ協会の大所帯ビッグバンドによる初のレコーディングが実現し、『ウチナーJAZZ!』が完成しました(11/5発売)。その歴史的レコーディングに立ち会わせて頂きながら、ピアニストで会長の屋良文雄さん(68歳)に、昔話も交えて“沖縄とジャズのこと”をたっぷりとお話を伺ってきました。【前編】と【後編】の2回にわたってお届けします!

——屋良文雄さんが初めてジャズを聴いたのはいつ頃でしたか?

屋良文雄:戦後すぐですね。というのは、沖縄は戦争でアメリカに取られてしまったんですよ。当時はラジオとか立派なものは手元には無くて、鉱石ラジオを自分たちで組み立てて作って、そこから流れてきたのがジャズだったんです。気がついてみたら、子守唄的にジャズを聴いていたんですね。

——自分たちでコイルを巻いて鉱石ラジオを作ったんですね?

屋良文雄屋良文雄:当時は民放も何も無い時代で、米軍放送の電波が強くて、ちょっとしたコイルを巻けば電波が届いていたほどだったんです。米軍放送の音楽=ジャズだったんですよ。

——そして実際にジャズを演奏しはじめたのは何歳頃ですか?

屋良文雄:高校のブラスバンド(吹奏楽)ですね。練習後、夕方6時頃になると先輩方が背広に着替え始めるんですよ。先輩に「どこに出掛けるんですか?」と訊くと「これから米軍基地で演奏のバイトだ」って言うんですね。そういう時代だったんですよ。

——先輩の影響もあって、ご自身も米軍基地で演奏をするようになられたのですね?

屋良文雄:あの頃何も無い時代に、そのバイト代が公務員の給料よりも良かったんですよ。それは魅力ですよね。

——最初、手にした楽器は何だったのでしょう?

屋良文雄:高校に入ったばかりの頃は、米軍の払い下げのクラリネットでしばらく演奏していました。
その時代はちょうどベニー・グッドマンが流行っていたので、バイトのリクエストが入るのを待っていましたね(笑)。

——どうやって上達していったのですか?

屋良文雄:最初の頃は見よう見まねで。そのうち先輩に習いながらですね。先輩と後輩の仲がとてもいい関係がありましたからね。

——当時米軍基地を中心にジャズが流行っていたと思うのですが、どういう感じで基地にジャズが流れていたのでしょうか。
沖縄JAZZ協会
屋良文雄:米軍基地は今の倍ほどあって広大でしたからね。基地の中のクラブでは、軍関係者が家族などと食事しながら、フルバンドの演奏でダンスしたり、それこそ鹿鳴館時代の雰囲気とでもいうのか、彼らのちょっとした贅沢でしたね。

——クラブやビッグバンドの数はいくつくらいあったのですか?

屋良文雄:クラブは約20ほどあって、そのうちビッグバンド(16名の大所帯バンド)が7〜8つくらいありましたね。そこでジャズ演奏に従事する人々が約500人ほどいました。それでも足りないので、高校のブラスバンド部のメンバーもかき集めてやっていましたよ。

——ジャズは、主に米軍基地の中でしか演奏されなかったのですか?

屋良文雄:基地の演奏は21時か22時頃には終わりますから、そのあとは基地の外でセッションが始まったものでした。

——ジャムセッションを楽しむ時代だったのですね。
沖縄ジャズ物語(1)「屋良文雄インタビュー」前編
屋良文雄:基地の中では、例えばグレンミラーとか俗にいうダンス音楽やディナー的なBGMが中心でしたから、どうしてもジャズの演奏がしたくて、基地のバイト演奏が終わると外(街の中)に出て、ジャズセッションしながら演奏を磨き合っていましたね。

——それは面白いお話ですね。ところで当時はどうやったら基地の中で演奏する事ができたのですか?

屋良文雄:直接基地に雇われていた訳では無くて、バンドマスターがいて、僕らプレイヤーはバンドマスターと契約していました。そしてプロのスカウトマンがいて、上手い演奏をするプレイヤーを見つけてはスカウトしていましたね。
今でいうプロ野球のスカウトの世界のようなもので、だからみんな燃えていましたね。中には学校の先生を辞めてまでプロのプレイヤーに転向した人もいましたよ。それくらい演奏家になることが魅力的なことだったんです。

屋良文雄——憧れのプロのステージに初めて立った日の事は覚えていらっしゃいますか?

屋良文雄:よく覚えていますよ。僕が21歳で大学3年生の夏休みの時でした。
そして最初に演奏したのは、グレンミラーの曲でした。

——その時はピアニストとしてですか?

屋良文雄:クラリネットとしてはなかなか使われる機会が少ないことは知っていたので、ピアノに転向していました。
一人でも練習できるのもまた楽しくて、毎日10時間くらい弾いていましたね。
沖縄JAZZ協会
——ここで沖縄JAZZ協会の話になるのですが、設立されたのは1957年。昨年が50周年ということでしたが、当時どれくらいのプレイヤーが参加していたのでしょう。

屋良文雄:約400名近いプレイヤーが参加していました。その400名がすべてプロです。沖縄県音楽家協会(沖縄JAZZ協会)といって、そのほかにも東京やニューヨークやフィリピンからもプロのプレイヤーが沖縄で参加していました。

——沖縄のクラブにはアメリカからも第一線のミュージシャンが来ていたと伺いますが、どのような方々が来沖されていたのでしょう?

屋良文雄:カウント・ベーシー、ルイ・アームストロングなどですね。

——沖縄のビッグバンドでのレコーディングは今までに無かったですよね。なぜ無かったのでしょう?

沖縄ジャズ物語(1)「屋良文雄インタビュー」前編屋良文雄:レコーディングするなんて事は、まったく考えてもいなかったですね。クラブに行けば生演奏のジャズはあるわけですから。
ですので、素晴らしいビッグバンドだったんですけどそういう機会が無かったんですよね。すでにレコード化されたような自分たちのアレンジの演奏ではなかったのでレコーディングはしなかったというのもあるんですよ。
でも今回は、自分たちのアレンジで録音することになったんです。それが今作『ウチナーJAZZ!』です。(【後編】につづく!)

(文+編集: 桑村ヒロシ、取材協力: シャラ・ラ・カンパニー、リスペクトレコード)



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Posted by ryuQ編集室 at 2008年11月06日   09:00
Comments( 0 ) 沖縄の人々
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