2008年01月11日
首里王府お水取り行事(辺戸)〜美御水奉納祭(首里) [後編]
![首里王府お水取り行事(辺戸)〜美御水奉納祭(首里) [後編]](http://img01.ti-da.net/usr/ryuqspecial/080111blog_top.jpg)
琉球王朝の公式行事が再現されたひとつに、首里王府の『お水取り行事』〜『美御水奉納』があると特集記事[前編]でもご紹介させて頂きましたが、
琉球王朝時代から廃藩置県後も昭和の戦前まで継承されていたともいわれるこの行事は、先の沖縄戦によって途絶えてしまいました。

平成元年から、復興への想いを具体的な実現化へと情熱を注いだ首里と辺戸の有志の方々により、それから10年後に復興を果たした『お水取り行事』も、第9回目を迎えました。
(主催: 首里王府お水取り実行委員会、共催: 国頭村辺戸区)
現代に、どのように蘇ったのでしょう。2年連続参加させて頂き、見聞きし体験してきたことをレポートし皆さんに届けたいと思います。
かつて旧暦12月20日に、首里から辺戸への使者となったのは、祭事の時を司った“時之大屋子”といわれ、そこでは神人7名、阿母阿父66名、朝衣八卷7名の計77名で、琉球王朝の安寧と繁栄、豊かな国土(琉球の島々)の五穀豊穣を願い、また航海安全を祈願。
今回の参加者全員がその代役となり、皆さんで一緒に祈願することになりました。
特に、実際に行事を司った阿応理屋恵(あおりやへ)役の美良樹吟呼さん、お供の神女役の方々、おもろ伝承者・安仁屋眞昭氏、そして首里当蔵自治会から選出された7名の方々など、それはとても厳かな面もちで、神聖な雰囲気が漂う中、辺戸安須杜の麓にある御嶽では、『神アシャギ』でお水取りの儀 〜『アフリ川(大川)』でお水を汲み 〜『シチャラ嶽』で五穀豊穣の儀 、そして『辺戸祝女火ノ神(祝女殿内)』にてお水取り行事終了の拝み、また首里までの道中の守護を祈り、王府の行事が行われてゆきました。

当時は7日間かけて、本島最北端の辺戸から首里まで聖水を運んだのだそうです。
実行委員会のある方は、徒歩でそれを実行したともいいます。それが第一回目の行事復興の時でした。
そして旧正月を迎える前の旧暦12月28日には、辺戸からの聖水を、新しく迎える年の吉方の水を汲んだものをひとつに合わせたといいます。

今年、子年の吉方とは浦添カガミ川とのこと。しかし現在カガミ川は枯れて使用できない為、沢岻樋川の聖水を使うことになりました。
首里円覚寺では奉納式が行われ、そして首里城へと向かいます。首里城では、女官・阿武心良礼(あむしられ)に取り次ぐ献上式が首里城にて行われたといいます。

献上式に参加したのは、時之大屋子など使者役の首里当蔵自治会の皆さんをはじめ、首里クエーナ保存会の皆さん、おもろ伝承者・安仁屋眞昭氏、沢岻樋川の聖水を護っている方など、33名が参列しました。
献上された若水(美御水)は、正月儀式の前に御水撫で(ウビーナディー)されたのだそうです。

この聖水による若水を、国王とその子と聞得大君が撫でることによって若返る(長命になる)ことを祈願したといいます。若返る(長命)=国の安泰・繁栄。この琉球の国(島々)は、もともと神(アマミキヨ)が創世したといわれる島国。琉球は、自然や神々と共にあり国(民)があったのではなかろうかと想いを馳せながら。
そして現在、すべての人々の健康と平和のことを祈願した行事(祭祀)として蘇り、息づいてゆこうとしています。
(文+写真:桑村ヒロシ)
(取材協力:首里当蔵自治会、辺戸区の皆様、
NPO首里まちづくり研究会、那覇市文化協会総合部)
2008年01月10日
首里王府お水取り行事(辺戸)〜美御水奉納祭(首里) [前編]
![首里王府お水取り行事(辺戸)〜美御水奉納祭(首里) [前編]](http://img01.ti-da.net/usr/ryuqspecial/080110blog_top.jpg)
首里城が1992年11月3日に復興して16年目になりますが、歴史的建造物のハード面の復元ほか、首里王府公式行事などソフト面の復興も行われています。
王府には年間100を超える公式行事があったとされており、現在そのうちの3つの公式行事が復興されています。
その3つとは、毎年11月3日に行われている『古式行列』、お正月に首里城『新春の宴』で行われている『朝拝御規式』、そして『お水取り行事〜美御水奉納』です。

これらはいずれも、新年を迎えるにあたっての行事の再現で、『朝拝御規式』については今年の元旦に記事にしてご紹介しましたが、毎年秋に開催されている『古式行列』も本来は国王の初詣として行われていたものなのだそうです。
そして今回は、『お水取り行事』〜『美御水奉納』をご紹介したいと思います。
お水取り、いわゆる“若水”とは、元来人間は自然の一部ということで生命の源“水”を尊び聖水を取り入れることで、1年が経つのではなく、また1年若返りますようにと、つまり“再生”を意味するもののようで、先日行われた中城グスクでの『わかてぃだ祭(若太陽)』をryuQでもご紹介させて頂きましたが、同様に“新しい節目”を大切に、それも“自然と一体化”していた事のように思われます。

首里王府が行っていたお水取り行事は、沖縄本島最北端の国頭村辺戸まで1週間かけて聖水を運んだといわれます。
国頭村辺戸には、琉球七御嶽の聖地・安須杜があるのです。琉球七御嶽とは、琉球開闢の神・アマミキヨが国づくりをされた時、まず聖地を創造されたと創世神話が残されています。
その第一番目の御嶽・安須杜岳を水源にもつ神聖な聖水なのです。国王の年始行事にて辺戸から届けられた聖水を使い『御水撫で』(ウビーナディー)が執り行われていました。
(お水取りの行事は、旧暦の5月にも行われていたそうです)

首里王府が発行した『おもろそうし』には、
『あおりやへが節』『ちやうかねよらめき節』『せなはともかちが節』『よやら○が節』『おもろねやがりがおきなわとよみまもんうちが節』『へどのたところが節』
と、6つの神歌に辺戸のことが記されており、首里王府が尊重していたことが伺われます。
王府おもろ伝承一五代目・安仁屋眞昭氏によれば、『あおりやへが節』に歌われている“あおりやへ(阿応理屋恵)”という神女は、第二王統の聞得大君が存在する以前の最上級の神女ではなかっただろうかと説いています。
『あおりやへが節』
一.あかわりぎや おもろ
安須杜の 世持つ孵で水よ
みおやせ 又 今日の良かる日に
(あかわりが謡う 神歌よ
世を支え守護する力を与える 安須杜の孵で水(美御水)を
今日の良かる日に 国王に奉じましょう)

琉球王朝の公式行事が、現代にどのように蘇ったのか、
また続きは、後編にて公開中です。
(文+写真:桑村ヒロシ)
(取材協力:首里当蔵自治会、辺戸区の皆様、
NPO首里まちづくり研究会、那覇市文化協会総合部)
2007年12月28日
世界遺産・中城グスク『わかてだ祭』(中城村/北中城村)

古来、琉球の先人たちは冬至の日を冬至正月(トゥンジーショウグヮチ)と呼び、その翌朝には新しい太陽「若太陽=わかてぃだ」が「てだがあな=太陽の穴」から生まれ出るとして、現在の正月と同じくらい大きな行事として=生まれたての太陽を祝い讃える=「てだがあな」行事を行っていたそうです。
沖縄の有名な古謡集「おもろそうし」にも「てだがあな」は歌われ、太陽の活力やその魅力は大きく伝えられています。
しかし、長い間この行事は途絶えていました。

そこで、先人達に学び、この素晴らしい「てだがあな」行事を復活させようと中城村と北中城村では、東り太陽(あがいてぃだ)を拝むには最適な高台にあり、今も久高島や首里への遥拝所など8つの拝所の聖域としても重要な役割を持つ世界遺産中城城跡を発展的に活用して、伝統行事を復活。冬至の翌日の日の出をみんなで祝おうと、今年で10回目を迎えました。
例年なら沖縄でも寒い日が続くころ頃ですが、今年はとてもおだやかで温く、早朝の気温も20度近くあったことで出かけやすかったという声も。
まだうす暗い時間から大勢集まりました。

地元の中城、北中城村はじめ、宜野湾市、北谷町、遠くは読谷村からなど、ご夫婦やお子さんと一緒のご家族、友達同士で誘いあってきたかたなどたくさんの方々が会場の中城城跡・三の郭前広場に集まりました。
広場には特設ステージが組まれ、日の出を待ちながら祝いの宴がまだ薄暗い7時前からスタート。

ライトアップされた中城城壁の前で古典音楽斉唱や太鼓演武などが披露され幻想的なムードを楽しみ、また広場に特別に用意された1456年鋳造というペリー提督ゆかりの大聖禅寺の鐘を参加者が次々と打ち鳴らし、平和への祈りを込めて大空へ響かせました。
この日(23日)の日の出時刻は7時13分。

やや雲が広がる中、空がじょじょに明るくなり、もしかすると太陽の輪郭は雲に隠れたままになるかもと、せっかくの機会を楽しみに来た人たちが固唾をのみながら空をみつめていると、オレンジ色にまぶしい輝く太陽がゆっくりと姿をみせました。

参加者たちからは安堵のため息や「綺麗だねぇ」「観にきて清々しい気分になった」など喜びの声が飛び交い、記念写真など撮って若太陽を拝めたことを喜び合いました。

会場では、今回の来場を機会に中城城跡について知ってもらおうと、ボランティアガイドによる場内歴史解説巡りも行われ、中城城を築いた琉球歴史に活躍した按司・誤佐丸についてや、城の独特な造りなどの説明に耳を傾けながら興味深く参加者たちはゆっくり散策も楽しみました。
また今年は記念すべき10回目の節目を記念して中城城をテーマにした「第1回琉歌中城グスク大賞」も行われ、受賞作品の発表、表彰も行われました。
大賞を受賞したのは中城村の源河史都子さんの作品。
「幾世ひざみても 石積みや残て 世界に鳴響まれる 我村ぐすく」

源河さんは琉歌の趣味は10年以上のキャリアがあり、県内では他地域でも優秀な作品を詠でんで選ばれてきたベテランながら「今回は特に自分住む村がテーマで選ばれたことがとても嬉しく今後の励みになる」と喜びも一入の様子でした。
ステージでは地域に伝わる伝統芸能の獅子舞や無形文化財の伊集のターファークーも披露され、新しい太陽を祝う宴は遅くまで賑わいました。

古琉球の歴史を尊び、太陽に感謝する大事な思いを受け継ぎ中城城跡の歴史とともに、
「わかてだ祭」は地域とともにますます発展し親しまれる行事となっていくことでしょう。
もうすぐ新年ですね。
初日の出を見に出かけるかたも多いでしょう。
太陽に感謝する沖縄の心をどうぞ感じていただけたらと思ます。
良い新年を皆様もお迎えくださいませ。
(文: 吉澤直美、撮影+編集: KUWA)
2007年12月11日
池間島のミャークヅツ

宮古島の北、池間大橋で結ばれた池間島で三日間(2007年は10月27〜29日に開催)に渡り行われる島の祭、ミャークヅツを見て来ました。ミャークヅツとは五穀豊穣と大漁を祈願する、池間島を祖とする池間民族(市井での俗称です)の豊年祭。漢字で表すと「宮古節」と表し、なんとなく内地の民謡のようなイメージをつい浮かべてしまいたくなりますが、この場合の「節」は節目を意味し、宮古口(ミャークフツ)では「フシ」の読みが「スツ」となるのが語源といわれています(本来、ミャークズツと表現するべきでしょうが、現在の報道など使われている表記は、ツに濁音が主流のため、便宜上ミャークヅツで統一させていただきます)。文字通り、ミャークヅツは池間島の大きな節目となる大切なる祭です。

市内から(行政上、池間島も宮古島市なので市内には違いありませんが、島では概ね旧平良市の中心部を市内と称します)車を走らせて、池間大橋を渡って池間島へと上陸しましたが、池間島最大の祭であるにもかかわらず、集落内はどことなく閑散としていました。
車を置いて狭い道が続く島の集落を、どこからか風に乗って聞こえてくる歌声を頼りに、徒歩で島の奥へと歩いてゆくと、静かな水浜広場(島のふたつの字、池間と前里の間に位置する公民館前の広場で、島の行事が行われることも多い)へ到着。いくらか人の気配はあるものの、とりたてて祭に参加している風でもなく、そこには万国旗に彩られた祭の雰囲気だけが青い空の下に用意されているだけでした。

水浜広場をあとにして、うっそうとしたナナムイ(七つの森)に囲まれ、海に向って鳥居の建つ、大主神社へ向った。鳥居の周囲で海風になびく幟には「オハルズ御嶽(銘文の解説はウパルズ)」と書かれている。音からするとまったく異なるもののような思えるが、宮古口では大きいをウプということから、ウプ=ウフ、アルズ=アルジの訛音(かおん)で「大主」の意味と読み取ることが出来た。
この大主神社は普段、ツカサンマ(司母)の許可がなければ、島民さえも立ち入ってはならず、年に一度のミャークヅツのナカヌヒー(中日)にだけ、島民はもちろん一般人にも参拝が許される神聖な場所。参拝に訪れる人々は履物を脱いで素足になり、まずは鳥居に一礼して参拝へと向うのを見て、あわてて裸足になって、見よう見まねで礼を尽くし、木々が茂る参道を奥へと向かうと、小さな祠が鎮座したオハルズ御嶽の中枢ともいうべき拝所が現れた。
傍らでは数人のツカサたちが香を焚き祈りを奉げており、特に信心深くはないけれど、なんとなく厳かな気持ちにさせられて、ゆっくりと拝所に手を合わせた。

大主神社でのお参りを済ませ、次なる目標はミャークヅツの特徴のひとつであるムトゥへ。「元」と書き表すムトゥは、ミャークヅツにはなくてはならない儀礼集団で、真謝、上げ枡(アギマス)、前ぬ屋(マエヌヤー)、前里の四つのがあり、島民はいずれかのムトゥに必ず属しているそうです。また、各ムトゥはムトゥヌヤー(元の家)と呼ぶ家をそれぞれ所有しており、ミャークヅツではこのムトゥーヌヤーが重要な役割を果たしてます。
ミャークヅツの三日間、ムトゥヌヤーにムトゥの男衆が集まり、酒をくみ交して労をねぎらい語らう場所となります。これは初日の午前中を例外として、この期間は一切の仕事をしてはならない禁忌まである徹底ぶり(勿論、島外へも出てはならない)。誤解を恐れずに端的にいえば、ムトゥーヌヤーはミャークヅツの三日間、徹底的に酒を呑み明かして楽しむ専用宴会場のようなものである。
もうひとつ特徴的なのは、この祭への参加資格。池間島では数え歳が55歳以上の男性にのみに資格があり(ムトゥヤーでの祭事は、男性のみが参加できる慣わし)、加えてムトゥヌヤーの中では、絶対的な年功序列が存在している。たとえどんなに高名な社長であっても、どんなに偉い先生であっても、ムトゥの中では歳が下なら序列は低く、それこそ55歳になったばかりの初参加者は、初年兵と呼ばれる使い走りとして、酒やツマミを作って先輩方の世話役をしなくてはならないのです。

ちょっとドキドキしながら、少し奥まった場所にムトゥーヌヤーを構える、前ぬ屋のムトゥへを訪れると、早速、おいでおいでと手招きをされました。ミャークヅツそのものへの参加は、先にも触れたように資格がありますが、外から島を訪れる人は、島に福をもたらすマレビトとみなされているため、トゥーへの訪問は歓迎されるのだそうです。
歓迎されているとはいえ、ミャークヅツの最深部ともいうべき、ムトゥーヌヤーへ上がり込むのには緊張が高まります。前ぬ屋のムトゥはそれほど広くない1K仕様で、天井に万国旗が飾られている程度で、とりたてて調度品も置かれていませんでした。「不忘敬」と書かれた額のある上座には、大正生まれという一番の先輩が陣取り、年齢順に壁を背にして輪になって、のんびりと座り酒を呑みながら、ほとんど聞き取ることの出来ない池間の島言葉で話をされていました。
まあ座れと即されて出てきたのは、ミャークヅツには欠かせない噂のミルク酒。泡盛をワシミルク(コンデンスミルク)で割ったスーパーカクテル(ミルク酒の作り方などは、♯1)で、口当たりがよく物凄く呑みやすいのでとっても危険なお酒だったりします。

一応、車だから(今は午前11時、帰るのは夕方あとなので醒ます時間はあるのだが…)と辞してみるも、島に福をもたらすとされているマレビト扱いでもあり、せっかくの潜入体験でもあったので、無下に断ることも出来ず、出されたものはきっちり呑むことにした。
美味い、実に美味い!。これまで幾度かミルク酒を呑む機会はあったけれど、これほどに濃厚でありながら、まろやかなテイストのミルク酒に出会ったことはなかった。さすがは連綿と続くミャークツヅならではの絶妙な配合がなせる技なのでしょう。
もう一杯くらい美味いミルク酒を味わいたかったけど、後々を考えて一杯だけに止めて、ひとまず前ぬ屋のムトゥを後にしました。

ムトゥ体験の興奮を紛らわすように、池間遠見台に立ち寄って眺望を楽しんだり、島内を酔い醒ましの散策がてら歩き廻っていたら、昨夜までの寝不足と一杯のミルク酒がボディブローのように利いてしまい、足元がフラフラして来てしまった。このままでは危険と察して、車へとどうにか戻り、限界とばかりにシートを倒してしばしの仮眠。
気づけば二時間弱、ウインドウ越しに差し込む陽差しにもめげずに眠たことで、すっかり酔いも醒め、前ぬ屋ムトゥでお土産として頂いた、折に詰められた煮付け(ミャークヅツのいわば、おさがり?)と缶入りのミキで小腹を満たして充電完了。再開したミャークヅツの次なる探訪の先は、四つのムトゥで最大の構成人員を誇る、前里のムトゥへ接近遭遇。広々としたムトゥヌヤー中では、カラオケ大会が大音響で興じられ、道端にまで人が溢れ、それぞれに酒を酌み交わし語らっていました。裏方を覗いてみると、ワシミルクの缶がずらりと並んでいました。まだまだミルク酒は作られるようです。

15時過ぎ。午前中はほとんど人気のなかった水浜広場に、島の人々や観光客が徐々に集まり始め、ミャークヅツのナカヌヒーのクライマックスが始まりました。
各ムトゥのテントに男衆が広場に集まったところで、ツカサンマたちは各ムトゥのテントを廻って始まりの挨拶口上を述べたあと、広場を前に五穀豊穣と大漁を祈願し、神に丁重に祈りを捧げるます。そして広場の中央にしつらえた祭壇を中心に、ゆっくりとしたリズムで扇子を片手にツカサンマたちが舞を踊り出します。
ツカサンマの舞の終わりとともに、公民館のスピーカーから勢いよくクイチャーが流れ出し、上げ枡ムトゥの男衆が先陣を切って、ツカサンマの踊るクイチャーの外側に輪を作りながら踊り始めると、続々とムトゥの男衆が加わり、広場を埋め尽くさんばかりのクイチャーの輪が出来上がりました。
ヒヤサッサのかけ声も高らかに、クイチャーを踊る様はとてもリズムよく、なんとも勢いに溢れていてとても楽しげです。やがて周囲で見ていた観客たちを引き入れ、クイチャーの輪はさらに大きな広がりを見せ、エンドレスで踊り続けるクイチャーの大共演はピークを迎えました。
ノンストップで続くクイチャーの輪も、次第に踊り疲れた男衆がひとりまたひとりと輪から脱落し、気づけばハッピ姿は数えるほどに。かつては代わる代わる踊りの輪に加わり、一晩中クイチャーを踊り続けていたそうですが、島民の減少から池間のミャークヅツクイチャーは、一時間ほど踊り継いだところで唐突に終了。男衆はミャークヅツ三日目の最終日に向け、再びムトゥーヌヤーへと戻ってゆき、水浜広場はいつもの静けさを取り戻して、ナカヌヒーのクライマックスも終わりを告げました。

最後に、これまでのミャークヅツの画像をご覧いただいてお気付きかとは思いますが、男衆の衣装についてのツッコミと考察です。
池間島で古くから受け継がれている伝統行事らしく、祈りを奉げるツカサンマは全員が着物を着ていますが、男衆の衣装はワイシャツにネクタイ、スラックス、そして革靴(ムトゥヌヤーには背広もハンガーにかけられていました)という伝統らしからぬ揃いのいでたちをしています。これらすべては正装という意味合いで、生活様式の西洋化に伴って生まれたスタイルではないかと考えられます。これはミャークヅツで呑まれているミルク酒についても同様で、ワシミルクという輸入品(現在はネスレのブランド)を泡盛で割る酒であるという点も見逃せません。古くは口噛み酒のどぶろくのようなものであったとかで、酒を作る手間やミルク酒の色味から、その代用としてミルク酒が流用されたのではないかと推察してみました(実際に近年まで伊良部佐良浜のミャークヅツでは、口噛み酒が作られていたそうです)。
また、ミャークヅツは池間島を祖とする池間民族の祭りとして、池間島から分村した伊良部島の佐良浜、西原地区(旧平良市)の西辺にも伝えられています。祭りの期日はいずれも同じで、旧暦の八月または九月の甲午(きのえうま)の日に始まりますが(佐良浜は四日間、池間と西辺は三日間)、参加資格は三地区で微妙に異なり、数え歳で池間島は五十五歳、西原は五十歳、佐良浜は四十七歳と五十歳が対象となっています。
地域や年代によって、さまざまに変化しても絶える事のなく続いているミャークヅツは、池間島(池間民族)の文化として、ミャークヅツが根付き脈々と生き続けている証に他ならないと感じました。
(取材: D介、制作: KUWA、取材協力: 池間島の皆様)
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2007年10月18日
謝名アヤチ獅子(今帰仁村謝名)

4年に一度(つまり5年目に行う)の5年マールといわれる沖縄県今帰仁村謝名(なきじんそんじゃな)の豊年祭を取材してきました。注目したのはこの地区に古くから伝わるアヤチ獅子(操り獅子)。
一説には300年以上の歴史があるといわれていますが、その渡来や歴史はまだ解明されてはいませんが地域の伝統芸能文化として大事に継承されているものです。
全国的にみても「操り獅子」は沖縄にのみ現存する芸能といわれ、先にryuQでお伝えした本部町伊豆見、そして名護市川上、この今帰仁村謝名の3箇所にのみあるという貴重な「糸操り獅子」なのです。

2007年9月29日(土)
今帰仁村謝名の豊年祭は道じゅねー(豊年祭の舞台で演技を披露する出演者のお顔お披露目の道練り歩き)で始まりました。
夕方5時とはいえ、まだまだ日差しはまぶしく気温も30度を超す暑さの中、大人も子どもも本番と同じ衣装と化粧を整え、汗をふきながらも、晴れ晴れとした表情で地区の繁栄を願う喜びいっぱいの豊年祭道じゅねーがスタート。
地区内のメイン道路(筋道)を、豊年祭と書かれた横断幕を掲げ、区長を中心に地区の役員が先導。そして旗頭、華やかな衣装の出演者の長い列がゆっくりと道じゅねー(行進)していきました。

注目のアヤチ獅子2匹も<謝名アヤチ獅子保存会>メンバーが担ぎ、真ん中付近に参加。にこやかな人々に担がれ、ゆっさゆっさと獅子の揺れる姿はまるで生きているようでもあり、愛らしく貴重な獅子の姿を一目見ようと沿道からは住民も駆けつけて拍手が送られていました。実はアヤチで使う獅子は2組あり、5年マールのときにだけ使用されるのが、この道じゅねーからお披露目するカミアヤチ獅子(神獅子)といわれるもので、地区住民も謝名アヤチ獅子保存会メンバーも豊年祭の時だけ、4年ぶりにカミアヤチに触れ合えるという貴重な機会なのだそう。
もう1組は「遊びアヤチ」と呼ばれ、地区外にて演技披露をする場合などに使用する凱旋用になるのだそうで、つまり豊年祭だけに本物獅子が使われています。

(※カミアヤチは昔は神アシャギに納めて保管していたが、近年は湿気カビ対策などを考慮しして公民館にて厳重に管理保管されるようになった)
アヤチ2匹は雌雄の対。
鼻先から尻尾のつけねまで70cm 胴回り85cm 前足を下げた時は45cm(2007豊年祭パンフレット解説より引用)。
(※雄のほうが若干大きいという専門家の話があるが、見た目にはわからないぐらいの差にみえた)
頭や顔、耳などは段ボール紙、胴の部分は麻や芭蕉で作られ、糸で獅子を吊して手で操るのため、躍動感や動きの鋭敏さを演じる為にもできるだけ本体の重量を軽くすることを考えて作られているのだそう。
また足先には「クンジュミー」という古銭(寛永通宝)が数枚ずつ各足先に糸で付けられ、獅子が動くたびに軽やかな音が響くようになっている。豊年祭の舞台会場は地域の神アサギの庭に特設舞台がつくられ、大勢の観客がつめかけ歩くすきまもないほどになり開演。
長者の大主(ちょうじゃのうふしゅ)で長寿の喜びを披露する演目から始まり、琉球舞踊や芝居、我那覇隆盛区長の挨拶など27演目のプログラムが組まれ、アヤチ獅子は最後の27番目の登場となりました。
夜7時からスタートした豊年祭の舞台も、夜9時を過ぎていよいよ待ちかねたアヤチ獅子の出番。
遠くは名古屋、東京など県外からも「アヤチ獅子」をどうしても見たいと駆けつけた観光客や研究者たちもいるなど、地元住民も楽しみに待っていました。

祭のステージにはアヤチ獅子専用の台が設置され(高さ50cm/奥行き2m/横4m)
その台の上で獅子2匹が舞台で黄金色の玉(ムンダニと方言でいう)を中心に、三線の演奏にあわせて2匹は向かい合うようにじゃれあい、激しく動く!!
とにかくものすごいスピード感にびっくり!!
動きが素早く、生きているようであり、2匹は噛みつき合うぐらいのケンカもしそうな獅子の動きに目は釘付け!!

謝名のアヤチ獅子の演技の特徴はなんといっても踊らせ方の激しさ、躍動感!とは説明もきいていたけれど、休むことなく三線の演奏に合わせたたくみな動きが素晴らしい!! 最後の盛り上がりのカチャーシーまでとにかく勢いあるド迫力がみものでした。
生きている獅子に見える=まさにカミアヤチだったのでした!!
演技終了後すぐに、獅子の操りを担当した保存会メンバーにお話を伺うと、満足した充実感の笑顔がいっぱい。
舞台裏のカーテン後ろ側では天井にパイプから滑車を利用し糸を通し、保存会メンバーがかなりのスピード感で手を上下左右に動かしていたそうで、
大汗をかきながら「とにかく素早く糸を引いた」「手がつりそうだった」「4年ぶりだから緊張した」「うまくいった」「迫力がでたよ」など、感激の興奮の言葉がいっぱいでした。
アヤチ獅子の舞台は、獅子舞をさせる舞台、操り人、玉を操る人、生演奏のドラ、太鼓、地謡(三線・太鼓など数人)など、裏方には大勢の人が携わっています。

豊年祭の舞台の最後をしっかり務める責任も大きく、
「よく獅子が舞うといい年になる」という、地区の吉凶を占い、祈願する意味もあるといわれ大事な意義があるのでした。
もちろん、2007年「アヤチ獅子」も大成功!演技も最高!!

観客からの大拍手も止まることなく、アンコールのかわりに最後にはカーテンをあけて舞台裏も少し見せるほどのサービスまでしてくださるほどのゆとりもあり、謝名の豊年祭は感謝と喜びに包まれて夜が更けていきました。
県指定民族文化財に「謝名アヤチ獅子」は平成14年1月18日に指定を受けました。
貴重な芸能文化「操り獅子」を誇り高く継承され、素晴らしい芸能文化を益々地域の発展に寄与されることを願っています。
(取材: 吉澤直美、編集: KUWA)
(取材協力: 謝名公民館、謝名アヤチ獅子保存会)
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2007年09月27日
伊豆味の豊年祭(本部町)

沖縄の十五夜(今年は9/25)は、各地で豊年祭や十五夜祭りが行われ、本部町伊豆味では4年に一度(4年まーる)の豊年祭が今年開催されました。
豊年祭とは、集落を護る神様へ五穀豊穣や子孫繁栄や無病息災を祈願する祭祀であり、神々が祀られた神社や拝所の前には舞台が組まれて奉納芸能が捧げられ、地域の人たちもいっしょに楽しむお祭りです。
伊豆味の豊年祭の起源は定かではないですが、俗説には300年以上ではないかといわれています。その根拠は、村のはじまりの頃からあったのではないかということで、1666年に今帰仁間切の屋取から伊豆味村(現在伊豆味区)になって300年以上経つことからきているのではないかと思われます。
今年行われた伊豆味の豊年祭は、[正日]9/21(金), 9/23(日), [別れ]9/25(火)の3日間行われましたが、開催前の9/17(月)には神の前で参加者全員(棒部/踊り部/仕立て部/総務部/など実行委員総勢265名)の名前を出し豊年祭を成し遂げることを神々に宣言する『ナーンジャミ』が行われます。

また、豊年祭当日は奉納芸能が行われる前には出演者総出で行列になって道ジュネーから始まるのですが、それよりも前に、先ずは代表者たちによって神社や根所(根家)への拝み(祈願)から執り行われます。沖縄の祭りの根元には、先人達から受け継がれた精神が現代にもしっかりと宿っています。

道ジュネーには、少年から壮年までの棒術部、踊り部、婦人部、レクレーション愛好会の長い行列が一筋に連なります。
神社前に到着すると婦人部とレクレーション部の舞いが奉納され、その後、棒部が総出で『総巻き』。全員が棒を掲げながら「ヒョーイ、ヤイ」と掛け声をあげ、渦を巻くように走り込みます。
「バラバラにある気持ちをひとつにまとめる精神統一の意味があるのでしょう」と区長の伊良波さん。

総巻きのあとは、21組66名の棒術が『いっそう棒』『たんかー棒』『団体棒』と3回に渡って奉納。
その中でも、伊豆味にしか無い独特な棒術が『裏棒』、通称『役人棒』とも呼ばれ、棒のつかみ方が通常とは逆で行われるものでした。

また奉納踊りでは17演目のうち、どうしても欠かせないのが『長伊平屋節』と『大願口説』。この2つの踊りと『組踊』が神への奉納する大事なものとなっています。
『長伊平屋節』は本部町の無形文化財に指定されている女踊。女踊なのに男性が女装し演舞しているのは、伝統的には男性が舞台に上がり奉納する役目となっており、そのしきたりを厳守している事にあります。

『大願口説』は工工四(譜面)も存在しないといわれる程、他ではまず観たことも聴いたこともない伊豆味独特の二才踊であること。

この『長伊平屋節』と『大願口説』の2つを欠かすと“不足が出る”と言い伝えられている程に、大切な捧げものなのです。
(“不足”とは、神様が怒り、集落の人々に警告を告げる事)
『組踊』は、現在伊豆味で定番となっている『伏山敵討』(富盛大主)と『久志の若按司』(天願の若按司)のほか、かつては『義臣物語』『大川敵討』『忠臣身替わりの巻』『姉妹敵討』『高山敵討』『本部大主』『屋蔵の比屋』『手水の縁』が上演されていたとのこと。そして今回は『伏山敵討』が1時間半に渡って披露され、客席からは拍手喝采が。

そしてまた伊豆味の豊年祭では、最終日[別れ]のみに上演されるという『操り獅子』が知られています。
操り獅子とは、伊豆味(本部町)のほかは、川上(名護市)、謝名(今帰仁村)の3つの地域にしかありません。
伊豆味の操り獅子は、2頭の獅子が向き合い、舞台中央の宙に浮かぶ銀の珠をめがけて飛びつきジャレ合うのですが、操り人形のように糸を使って1人で同時に頭と胴(尾)を操作するという難しいもの。
平成13年に新調した際には、三体を作り、一体はウガン用(御願)で残り二体は練習用とし、後継者育成に取り組まれているとのこと。

「老いも若きも、自分に与えられた仕事を達成し、それがまとまることで地域の活性に繋がると思いますので、これから益々村おこしに励みたいと思います」と役員の伊野波盛明さん。

最後の総踊りもまた、伊豆味独特のものといわれています。出演者だけでなく、実行委員、役員のみなさんも舞台にあがりゼイを持ったりしながら半時計回りに行列が渦を描きます。
それがカチャシーへと展開した後、最後に全員で一礼し、終演を迎えます。
区長であり実行委員長でありの伊良波さんは、最後にこう締め括りました。
「4年に一回なのですが、豊年祭を通して集落が一体になりました。皆様どうもありがとうございました」
伝統的な祭りの中に、集落の和を育む心(精神)が息づいていました。

(文+写真:桑村ヒロシ、取材協力:伊豆味区事務所)
2007年09月13日
石川エンサー(エイサーの原風景を訪ねて3)

エイサーの原風景を訪ねてシリーズ第3弾は『石川エンサー』(現在、うるま市石川/戦前は、旧美里村字石川)を特集します。
石川(いひちゃー)のはじまりは、尚真王の時代にさかのぼり、
琉球王・尚真の命を受け、冨着大屋子が美里間切(現石川)の砂地だったところを区画整理し碁盤目状に街を作る際、まずは神屋や拝所を作り、そこから人の住む街を形成し、また村人の団結をはかる為に村の行事も作っていったといいます。
それが奉納芸能であるウシデークやエンサー(エイサー)などに発展していった様子。

石川部落長の石川行雄さんも「ほとんどの集落行事は、神ニゲェ(神願い)。拝所廻ったり、そして奉納芸能をしっかり護っていかないと」とのこと。その神屋と村屋を拠点に、石川エンサーの行事が現在も行われています。
「こういった行事をする中で、エンサーの良さや地域の良さが若い人たちにもわかってくると思います」とは、部落会役員の伊波章雄さん。

旧盆は集落内を道ジュネー。歴史ある村屋から出発し、旧前ン渠から銀座通りをはさんで旧後ン渠を2日間にわたって巡ります。
そして旧盆だけで終わらず、その翌日の旧7月16日には旗頭を立てエンサーとウスデークを奉納する『旗スガシ』、そして旧19日にはそれを収める『別れアシビ』が行われます。
この行事では、豊年万作、五穀豊穣を祈願。別れアシビでは旗を神屋に収める前に、旧集落の要所要所で厄をはらって行きますので、エンサーやウスデークの奉納芸能のほか根人根屋の神人さんも同行して一緒に廻り清めてゆくのです。

石川エンサーは、鉦と太鼓の音色にあわせて、まずは神々を招聘する所作からはじまるのが特徴です。
また、終わり方も一般的なカチャシーでは終わらず、同様の所作で収めるというとても特徴的なエンサー。
その姿も、黒衣の着物に白の襷、帯紐と同じ薄赤紫の頭巾にそれを紫色の鉢巻でしめるという、他の地域ではみられない伝統的な衣装を身にまとっています。

そして何より、“もーやー”(手踊り)の型も特徴的で、伊波章雄さんによれば「力強く拳をあげる姿は空手の型から、足運びは琉球舞踊から発展した」といいます。その所作に、どこかとても“懐かしい”と感じさせてくれるのです。太鼓の持ち方からして昔ながらの懐かしいエイサーを継承し、ソーグ(鉦)の音が念仏踊りのルーツを辿るかのように響いてきます。
また歌についても戦後の歌ではなく、戦前から歌い継がれている古典的な歌のみ。
現在の踊りの型は、大正9年からの形式を守り続けているといいますが、
石川エンサーは200年以上もの歴史があるといわれます。
その約200年の歴史を誇る石川エンサーも一度は途絶えました。石川エンサー愛好会の石川浩樹さんは、「1991年から12年間途絶えた石川エンサーも、2003年に復活して、石川エンサー愛好会の伊波孝浩会長と共に20名からはじめて、今では40名以上に増えてゆきました。
大変なこともあったりしますけど、神屋でみんなで奉納したあと、“あぁ、やっぱりやっていて良かったなぁ”って思いますね。そのあとみんなで酒飲みながら反省会するのがまた最高ですね。
それから、個人的な希望は、現役で手踊りの指導をされている伊波十徳さん(81歳)が元気なうちにハワイ公演を実現したいですね!」とのこと。
そして伊波十徳さんは、
「エンサーの手踊りを続けて65年という記録を持っていますけど(今も現役です)、その宝を愛好会に伝えたい。
“遊びぬ美らさや(あしびぬ ちゅらさや)、人数ぬ備わい(にんじゅぬ すなわい)”という言葉もあるように数も揃えて(会員を増やして)、ハワイ公演にも挑んでゆきたいと思います」とのこと。また、全島エイサーまつりなどでも伝統の石川エンサーを披露する機会あればとのことでした。
今年は、同日に開催された『第2回 うるま市エイサーまつり』に出演し、7万人という大勢の観客を魅了しました。
また、地元でも誇り高き石川エンサーは『いひちゃー青年エイサーまつり』に毎回出演しています。
ぜひ、多くのかたに観て頂きたい懐かしくも力強い男エイサーなのです。
(文+写真:桑村ヒロシ(KUWA)、取材協力:石川エンサー愛好会、根人門中の皆様)

※エイサーの原風景を訪ねてシリーズ:(Back Number)
(1) 『世冨慶エイサー』(名護市)
(2) 『シマエイサー』(本部町)
(3) 『石川エンサー』(うるま市)
タグ :石川エンサー
2007年09月06日
本部のシマエイサー

エイサーの原風景を訪ねて〜第2弾。
シリーズ第1弾では平敷屋エイサー(うるま市勝連)のルーツではないかといわれる名護の世冨慶エイサーを特集しましたが、今回はさらにその元のルーツを辿ってゆきたいと思います。
ところで、旧盆エイサーの原形がなぜ念仏踊りではないかといわれるようになったのでしょうか。その歴史は400年前にさかのぼります。
1603年、浄土宗の僧侶・袋中上人(たいちゅうしょうにん)は中国に渡ろうと試みたところ、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」の影響で入国が許されず、その帰りの航路で嵐に遭遇し漂着したのが琉球だったといいます。
時の王・尚寧(しょうねい)に仏教への帰依を得て、庶民にわかりやすく念仏踊り(じゃんがら念仏)で広めたといわれ、それがエイサーのルーツではないかという説があるのです。
今でこそ、派手な太鼓エイサーが全国的にも知られるようにようになりましたが、元々は手踊りエイサーが原点ではないかもといわれ、今も北部には手踊りエイサーが盛んな地域がまだまだあります。
手踊りエイサーが多く残る地域といえば本部町のシマエイサー。前回ご紹介した世冨慶エイサーも、そのルーツとして有力説のひとつが本部町の瀬底島から伝わったものだともいわれます。

本部のシマエイサーは、地域によっては伝統祭祀であるシヌグの行事の中でも舞われる集落もあるようです。
そのような昔ながらの手踊りエイサーが現在でも多く残っている本部町では、4年前から青年達が中心となって手作りの青年エイサー祭りを開催しました。
その最初の呼びかけ人が、当時の瀬底青年会の会長さんだったそうです。
瀬底の会長さんは、酒を持って各区の青年会をひとつひとつ廻って呼びかけていったといいます。
「今までやった事がないことを、各区のみんなでやってみようと思った」のだそうです。
はじめての試みに賛同する青年会もあれば、またライバル意識もあってか非難されることもあり、そのような苦労もありながら青年エイサー祭りの開催を実現していったのだそうです。

第1回から第3回目まで本当に自分たちだけで手作りした自分たち本部人のためのお祭りを、今年からは、新しく発足させた本部町青年団協議会(昨年12月に発足)が主催となって開催。
これまでの取り組みに貢献した瀬底、大浜、崎本部、伊野波、備瀬の各青年会には感謝状が贈られました。

本部町青年協議会会長・大城元治さんは、
「本部には、先輩から代々伝わった昔ながらの手踊りエイサーが多いのが特徴ですので、そこを楽しんで頂けたらと思います。今回、本部町青年団協議会を立ち上げて初めてのエイサーまつりということで、地域の皆さんに喜んで頂いて何よりです。
これからも若い力でどんどん盛り上げてゆけたらと考えています」とのこと。
町内から出演した8団体の中で、手踊りエイサーが6団体を締めるほど、昔からの手踊りエイサーがこれだけ多く残っている青年エイサーは今では本部だけかもしれません。
各青年会は、やぐらの周りに大きな円陣を作り、手踊りを中心としたシマエイサーに誇りを持って、大きく舞っていたのが印象的でした。

渡久地青年会:
「今回、エイサー祭りを企画された本部町青年団協議会の皆さんお疲れさまです。それから1回目から第3回まで引っ張ってくれた瀬底青年会の皆さんもありがとうございました。渡久地区は今回初参加なんですが、また来年も頑張ってゆきたいのでよろしくお願いします」
大東山青年会:
「私たちの青年会エイサーは6年ぶりに復活して今日の演舞をやることができました。各青年会が集まって、本部町を発展させていけたら凄いなと思います。
今8団体あるのですが、また来年はさらに全部の区が参加してもっと増えていけることを願っています」

谷茶・辺名地青年会:
「谷茶と辺名地が統合されて、今年はじめて皆さんの前で踊るエイサーでした」
大浜青年会:
「昨年以上に今年はお客さんに来て頂いて大変嬉しいです。
来年もまた盛り上げて行きたいと思いますので多くの皆さんにぜひ来て頂きたいですね」

瀬底青年会:
「こんなに大勢のお客さんが来場して大成功だったと思います」
崎本部青年会:
「昨年よりも今年、今年よりも来年と、一歩一歩いいカタチになっていって、そして皆さんの盛り上がりも素晴らしくなってきていると思います。
各区も負けないように頑張っているようですし、また自分たちもそれに負けないように頑張ろうと思いますので、みなさん、競争心も持ちながら頑張りましょう」

伊野波青年会:
「今日も素敵なイベントができて良かったです。また来年もできるように頑張ってゆきます」
備瀬区青年会:
「今日はこんな遅い時間まで沢山のお客さんに来て頂き、踊り手が元気が出ましたね。大成功だったと思います。ありがとうございました」

現在も青年たちのエネルギーに満ちあふれた舞いを魅せた
粋な本部のシマエイサーでした。
エイサーの原風景を訪ねる旅は、これからもまだまだ続いてゆく予定
ですので、続編もどうぞお楽しみに。(つづく)
(文: KUWAこと桑村ヒロシ、写真: KUWA、P2)
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2007年09月05日
世冨慶エイサー

旧盆の風物詩・エイサーは、元々は本土の盆踊りにあたり、その原形はニーブンチャーウドゥイ(念仏踊り)ではないかともいわれます。その面影を感じさせるエイサーとして知られるのが平敷屋エイサー(うるま市勝連)など、今も伝統の踊りを残しています。
そして平敷屋エイサーも、明治36年には当時の青年会長が、その頃県内で評判だった名護のエイサーから習ってきたものとの記録があるようです。
平敷屋エイサーと名護のエイサーとの関係は、
「名護人やたら裏座んかい(名護の人なら特別席へどうぞ)」と歌われる平敷屋エイサーの『二合小』の中にも残っており、
文献の記録は少なくても、歌い継がれる伝統曲の歌詞のほうからもその当時の様子を垣間見ることができます。
名護のエイサーといえば、今も伝統色残るエイサーが世冨慶(よふけ)と城(ぐすく)にあると伺い、
今年の旧盆は、エイサーの原風景を訪ねてみたくなりました。
そして名護のエイサーといえば、当時は世冨慶エイサーぐらいしか無かったのではないかといわれています。
そこで、実際に世冨慶エイサーを見聞し、世冨慶エイサー保存会の会長さんにもお話を伺ってきましたのでレポートします。

世冨慶エイサーの歴史は150年以上になるといわれ、本土復帰前の琉球政府より無形文化財(琉球政府指定)にも指定されていたという手踊りエイサーの代表格で、1968年には国立劇場にも出場したこともあるとのこと。

世冨慶エイサーのそのスタイルは、男性は紺地の着流し女性は絣の着物とその姿に、平敷屋エイサーの姿を重ねてみることはできるのですが、
何よりも大きな特徴であるのが、円陣を組んで踊る手踊りが主体のエイサーだということ。今では、やぐらを組んで踊っていますが、かつては一晩かけて各家々を廻っていたといいます。

太鼓は芭蕉を藁帯で結んだ大太鼓が2人だけでゆっくりと時を刻むように、ドーン、ドーン、ドーンと打ち込んでゆきます。今でこそ、大太鼓が2人だそうですが、古き伝統では小太鼓の締め太鼓が1人だけで全体の拍子を整えていったのだとか。
実は太鼓の音が大きすぎないほうが、世冨慶エイサーの特徴である歌や囃子が活きてくるのだそうです。
踊り手は、曲によっては扇、四ツ竹、ティサージと使い分けますが、扇も本土復帰前は日の丸ではなく黒と赤の二本線のものだったといいます。
また、50年くらい前には紺地の片袖を外して舞っていたともいい、以前は平敷屋のように酒瓶もあったのだとか。
そして踊りだけでなく、歌のほうも注目であり、100年以上前からの古い歌を受け継いでいるのだそうです。
今年、101歳の仲村栄子おばあちゃんも「この伝統を大事にしていってほしい」とのこと。

現在、唯一その歌を三線で弾いて歌えるのは、世冨慶エイサー保存会会長の我部政行さん(73歳)のみ。
数年前には保存会を結成し、古いエイサー歌を工工四として譜面化し保存継承する作業を開始したほか、その継承に取り組まれています。
「世冨慶エイサーは地域の宝です。青年会にも伝統的なスタイルを鉢巻ひとつから継いでゆきたいと思っています。
また、小学生の子ども達にも教えはじめています。小さい頃に教わったものは忘れないでしょう」
子ども達もまた、元気に囃子を歌いながらいっしょに円陣の中に交ざってゆきます。
そして子ども達だけではありません。旧盆は、久しぶりに地元に帰省してくる出身者も多く、輪の中に一人また一人と増えてゆきます。
「かつてエイサーを踊った覚えのある人はたまらず飛び入りして盛り上がってゆくんですよ。
その為にも、型を崩さないことが大切なんです。帰省した彼らも歌や踊りは暗記していますからね。久しぶりに地元に帰ってきてエイサーの輪に飛び入りしてもすぐに踊ることができるんです。
昔の踊りのそのままの型である魅力のひとつは、そういうところもあるんですよ。
型も歌も、若い人たちに継承してずっと後世に繋いでいってほしいですね」と会長さん。

また、会長さんがおっしゃるには、今の青年会にも古き伝統を大事にしてゆきたいという気持ちがある事にとても期待されているようです。
「古典エイサーの原点ともいわれているので、ゆいまーる精神でみんなで頑張ってゆきたいと思います」とは、世冨慶青年会会長・岸本義人さん。
青年会の皆さんも口々に「会長やみんなと一緒に頑張ってゆきたい」とコメントされていたのが印象的でした。
そして、世冨慶エイサーは七月エイサーとしてだけでなく、地域行事としてのとても大事な役割があるようです。
「この集落には豊年祭が無いのが特徴で、その分、エイサーに力を注いでいるんですね。
世冨慶のエイサーとは、豊年祈願、地域繁栄、健康願いのニンジュ結び(集落のコミュニケーション)の行事でもあるんです」
旧盆だけで終わらず、その翌日にも集落内の神々に、エイサーを奉納してゆくのだそうです。

最後に、世冨慶区長の仲村勝晃さんにお話を伺いました。
「集落をまとめてゆく上で、世冨慶には伝統的なエイサーがあるので、エイサーを通してコミュニケーションをはかってゆきたいですね。
そして現在の青年会も、昔のエイサーに戻そうという気持ちもあるようだから、世冨慶の伝統的なエイサーになってゆくと思っています」

月夜の明かりの下で奉納されてゆく手踊りエイサーを連日通って拝見させて頂く中で、何よりもエイサーに情熱を注ぐ地域の人たちの取り組みに触れることができ、
そこから、保存することの大切さと未来に活かす努力の姿を学ばせて頂きました。

『エイサーの原風景を訪ねて』シリーズの今後の続編では、世冨慶エイサーのルーツではないかと云われる本部のエイサーまで、さらに遡ってゆきたいと思っています。(つづく)
(文: KUWAこと桑村ヒロシ、写真: KUWA、P2)
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2007年08月15日
平和祈念・琉球王朝禮楽の奉納演奏(王府おもろ、首里クェーナ)

8月15日は、終戦記念日。
そして沖縄では、6月が「慰霊」の月。
幼い子ども達から大人まで、それぞれの想いを
戦争で亡くなった多くの御霊へ、鎮魂の祈りを捧げます。
今年は、沖縄がアメリカから日本へ返還されて35周年。
あらためて世界平和を祈念しようと、
琉球王朝時代より継承されている『王府おもろ』や『クェーナ』、『琉球古典・湛水流の演奏』『琉球舞踊』という禮楽を初めて一同で奉納祈念する『平和を祈念して 琉球王朝禮楽の奉納演奏』が6月30日に平和祈念堂(糸満市摩文仁)で行われました。

この奉納演奏会の開催へ中心となったのは『王府おもろ謡(ふ)きゅる保存会』(代表・安仁屋眞昭氏・第15代 王府おもろ伝承者)。『王府おもろ』とは、琉球王朝時代より首里王府の公式行事(儀礼祭礼)で主取(ぬしどり)と呼ばれる専門役職の男性役人が謡い、伝承、管理をしてきた王府に重要な役割をはたしてきた祭祀謡で『王府おもろ謡きゅる保存会』代表の安仁屋眞昭氏の曾祖父が、琉球王朝時代最後の主取であった安仁屋真苅氏。
現在、唯一人の『王府おもろ』継承者である第15代王府おもろ伝承者安仁屋眞昭氏は、この大事な『王府おもろ』を次代へ広く継承しようと去年9月に『王府おもろ謡(ふ)きゅる保存会』を結成し王府おもろの“謡=歌唱”の指導をしています。
開演に先立ち安仁屋眞昭氏は、「琉球王朝はかつて武器をもたない平和の国でした。禮楽の奉納演奏で世界の平和を祈念しましょう」
と出演者を代表して挨拶。
王府おもろ謡きゅる保存会による『王府おもろ』から尚円王様の王子王女の舞踊を讃える『しよりゑとふし』、五穀豊穣を願い首里正殿で主取が謡った『あおりやへがふし』の2曲が厳かに謡い納められ、
続いて、首里クェーナ保存会により、琉球の古謡であるクェーナから、斎場御嶽(セーファー ウタキ)を讃え国家の安泰繁栄を祈る『アガリユウ』をゆっくりとした歩みで祈りを込めながら歌い奉納されました。
そして琉球古典音楽の源流である湛水流伝統保存会により、国家安泰、国王への感謝を込めた「じゃんなー節」。

啓扇船乃会 船越節子舞踊研究所 会主・船越節子(県指定無形文化財沖縄伝統舞踊保持者)による、湛水流オリジナル創作舞踊『作田』(振付・阿波連 本啓)が奉納されました。
船越節子会主は「私の父も戦争でどこで亡くなったかもわからないままですが、遺骨のある人、無い人、どこで亡くなったかもわからない多勢の大事な命たちに、今生きている私たちからこれからの平和と人々の幸せに祈りを込めて、犠牲になられた多くの御霊に感謝と鎮魂の思を込めて踊りました。このような平和祈念堂という、すべての命のむーとぅーやー(本家)で踊る機会となり貴重な機会に感謝しています」と感慨深い想いを語ってくれました。

琉球王朝時代から継承される禮楽・王府おもろ、クェーナ、古典演奏歌、舞踊が初めて一同で平和祈念堂で奉納され、次代をつなぐ伝統文化と共に、世界へ平和への祈りの心が繋がることを祈念いたします。
(文・吉澤直美、写真・KUWAこと桑村ヒロシ)
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2007年08月10日
八重山商工高校 郷土芸能部 祝・文化庁長官賞・優秀賞受賞!

全国の文化部で活動する高校生たちの甲子園といわれる文化の祭典「第31回全国高校総合文化祭」が島根県で7月29日〜8月2日開催され、郷土芸能部門で、沖縄県代表・石垣島の八重山商工高校 郷土芸能部が、文化庁長官賞・優秀賞を受賞しました!
八重山商工 郷土芸能部にとって念願の東京・国立劇場で行われる「優秀校東京公演」(8月25、26日開催)への出場権も獲得!
大きな喜びと感動の受賞報告をお土産に、今年で3回目となる親善公演を、名護市にある国立療養所沖縄愛楽園にて8月4日に行われました。

八重山商工 郷土芸能部にとって、沖縄愛楽園親善公演は恒例となりつつあり、今年で3回目。
今回は、嬉しい受賞のお土産を持っての親善公演です。
受賞した大きな喜びで、はつらつと輝く演技が披露され、明るい笑顔と活力にあふれた舞台で八重山芸能の魅力を存分に披露しました。

会場内には、車イスや介添え係りの方と一緒に観覧する方をはじめ、会場にまで移動の難しい方々のためにも鑑賞いただこうと、TV中継システムで園内各部屋に特別に生放送も行われ、島々に伝わる伝統唄や踊りを多くの方が楽しまれました。

中には、「ふるさとを思い出したよ」と、八重山ならではの島々の唄や踊りに目をほそめながら見入り、涙ぐむ方や一緒に手拍子をしながらと、みなさんとても熱心に舞台を鑑賞され、最後は客席と舞台出演者が一緒になりカチャーシーで喜びの交流となりました。

沖縄愛楽園 自治会副会長の小底秀雄さんは、
「愛楽園内には約30名ぐらいの八重山諸島の出身者がいます。やはりふるさとの芸能にこうしてふれあえるのは大変嬉しく感動します。私自身も八重山の黒島出身ですので、今日は黒島口説もありとても嬉しく感激し、島のことを思い出し懐かしくなりました。最初にこの愛楽園で彼らの親善公演を実現へ導いた尽力者である石垣島出身の迎里竹志自治会長が先月亡くなられ、この公演を毎年とても楽しみにしてたので残念ですが、彼らの公演はぜひ継続したいと思っています。
若い高校生のハツラツとした演技で私たちもとても元気をいただきますし、なによりハンセン病への理解を広める啓発にも繋がってますので、今後も多くの方への啓発に繋がることも期待しております」と、鑑賞と受賞の感激で胸いっぱいの思いの中、若い世代との交流を通して期待する熱い想いが語られました。
今年の7月11日に病気のため亡くなられた愛楽園の自治会長であった迎里竹志さんは、ハンセン病啓発運動にも大変に尽力をされた方であり(ハンセン病予防協会職員も務めた)、またふるさとである石垣島の八重山商工高校郷土芸能部の愛楽園公演を実現するため、多大な尽力をされ、生徒達にもとても慕われ交流を深めていたのだそうです。
今回の親善公演後、生徒達は念願だった受賞と東京の国立劇場へ出場することになった報告と感謝を込めて故迎里竹志さんの自宅(園内)へお焼香にも伺いました。生徒はそれぞれにとってもお世話になったことや、優しくしていただいたこと、またハンセン病についても勉強したことなど、たくんさんの思いが募り、中には涙をこぼし胸いっぱいの様子などがみられました。
踊りの指導担当・岡山睦子先生は、
「迎里さんには園内を案内していただいたり、さまざまな交流で貴重な社会勉強指導もして頂いたんです。生徒達は、島へ帰ると愛楽園で過ごしたことを楽しそうに自慢するように話しています。ここでの体験がいい勉強になっています。
またそれらの経験は、舞台でも人間としても充実したものになっていくのだと思います。
たとえば八重山は豊年祭や旧盆など芸能が出るお祭りが多いですから、指導する時も、どこどこの豊年祭のあの曲の時のようにとか、私の生まれ島竹富島の種子取祭など例にして、すぐ身近にすばらしい教科書にもかけないような本物の芸能があるわけですから、今生きている芸能とたくさんのひとたちで作り出す舞台の魅力に繋げて成長しています。そしてどの運動部にも負けないほどのたくさんの稽古を積んで、全員でいただいた受賞ですから本当に嬉しいです。東京の国立でも多くの方にみていただきたい」
と話してくださいました。
全国大会で文化庁長官賞・優秀賞を受賞した作品は「果報ぬ世ば給ぅられ」=竹富島の国指定重要無形文化財である「種子取祭」をベースに作れたオリジナル作品です。
('06年に国立劇場おきなわで高校生として八重山商工郷土芸能部が初めて自主公演し、大好評となった演目と同じもので全国大会へ出場)
生徒達は今年の1月、東京国立劇場での公演出演を目標に、実際の種子取祭の演技の勉強をしようと竹富島へ行き、島の方から本物の国指定無形文化財である「種子取祭」の指導を受け、島のみなさんからお墨付きをもらい自信を持って全国大会へのぞんでいたのでした。
聞けば審査はとても厳しいもので、幕開けから幕閉めの緞帳の下りきるまでを競技時間とする規定15分間に演じきる規定で、1秒でもオーバーしたら失格になるという。
演技の評価だけなく、規定時間にも厳しい審査があったのでした!
そしてーなんと14分50秒という、ギリギリまで目一杯使って演技を披露したということでした!(シタイヒャー!!)
OGとして島根県まで応援に馳せ参じた昨年の部長・渡久山南葵さん(現在千葉県の大学1年生)も、「時計をみながらはらはらしていました。もうわずかしか時間がないとなってもまだ幕が途中までしか下りてこなく幕が閉まるのを早く早くと祈ってました。
わずか10秒残して演技も幕もしまりました。しかしホッとするまもなく、気になる発表も待つ時間がなく台風接近のため急遽沖縄へ帰ることになり、福岡の空港で那覇への飛行機にもう搭乗する寸前、携帯の電源を切らなくちゃという時に受賞の電話が来たんですよ。もう感激しましたー!」
と、喜びの笑顔をみせてくれました。
これまでのたくさんの先輩たち(OG・OB)、応援する関係者一同、
そして、生徒達みんなの大きな目標!
念願の東京国立劇場での演技披露が、いよいよ今月26日に実現します!!
出番予定は8月26日の午後3時20分〜。入場は無料です。
“ぜひ多くのみなさんに沖縄の芸能の魅力を存分に感じてもらいたい”
それが生徒達の大きな希望です!

沖縄の芸能の素晴らしさをどうぞご覧下さい。
(↓公演日程の詳細は、下記の[続きを読む]をクリック)
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2007年08月02日
66年ぶりに復活! じのーん大綱

「ハーイヤ!」「ハルヤイ!」「ハーイヤ!」「ハルヤイ!」と
天高く復活の喜びの声届けとばかりに、大きな威勢のいい掛け声が響き、
66年ぶりに宜野湾「じのーん大綱引き」が復活!
7月29日(日)に沖縄国際大学グランドで盛大に行われました。

かつて戦前までは、宜野湾市内では14カ所の字(あざ)で綱引きが行われていました。
中でも今回66年ぶりに復活となった「字 宜野湾」では、旧暦6月15日か25日に「六月ウユミ」の行事に「綱引き拝み」があり「宜野湾馬場」で綱引きを行っていたのですが、戦争激化のため昭和16年(1941年)から伝統行事であった綱引きも途絶えてしまい、その馬場も集落のあった場所も現在は普天間基地として接収されてしまったままです。

その頃を知る年輩の方々や字誌などの記録によれば、宜野湾市内の「綱引き」の中でもとりわけ勇壮さで人気があったというのが「字 宜野湾」の綱引き。
勝負後に行われる「戻り綱(ムルイヂナ)」と呼ばれる勝ったほうがその勝綱を高らかに担ぎ上げ、蛇行させながら馬場を駆けめぐる様は勇ましさや迫力に特徴があり、宜野湾市内だけでなく近隣地域でも評判の綱引きだったのだそうです。
昨年(2006年)3月に行われた宜野湾市の創作市民劇「じのーん産泉(ウブガー)」公演の際、
この途絶えていた「じのーん(字 宜野湾)の綱引き」の場面が登場し、当時を偲ぶ想いがつのり、また素晴らしい地域の伝統ある歴史を途絶えたままにせず、実際に復活させ継承しようと地域住民の声が高まり、復活することになったのでした。

その市民劇で登場した綱は劇用のカヤでつくったレプリカ。本物の綱を復活製作のため、藁は伊芸(金武町)のものを取り寄せ、雌雄綱はそれぞれ長さ30M、太さ直径約40cmのものが完成しました。
また、「字 宜野湾」の大事な神様(現在は普天間基地内にあり普段は入ることが出来ない4つの拝所・御嶽)に、地区代表者が復活への取り組み、成功への祈願、土地守りへの感謝を祈願し、綱作りも神聖に執り行ったのでした。

そして綱引き当日、まだまだ日差しもまぶしい夕方午後6:30より、前村渠(メーンダカリ)と後村渠(クシンダカリ)の2つの地区に雌、雄各綱は担がれ、ホラ貝、チジン、ドラ、などの鳴り物の音を先導に響かせながら沖国大駐車場から一般道を練り歩く道ジュネー(グラウンドまで約620m)。

綱パレードで復活の喜びを披露し、地区住民の一致意団結、意気を高揚させ入場のセレモニーでスタート。

大勢の観客も詰めかけ、開会式、ガーエー(旗頭の演舞、勢いの高まりの競い合いの棒チケー)、空手演舞披露など勝負前の祝い演舞が行われ、いよいよ綱を雌雄合わせての勝負へ。

「じのーん綱引き」の大きな特徴は、誰でも参加して一緒に綱をひくことができるとあって、観客の大人も子どもも自由に綱をもって積極的に大勢が両サイドに加勢参加。

雌雄綱の先頭には「支度(したく)」という代表者が各々に乗ったまま向き合い気勢をあげるところもまた特徴的。
そうやって両綱がカヌチ(貫抜)棒でつながり、しっかりと綱が1本に結合となって地面についた瞬間を合図に、勝負がスタートしました!

じのーん綱引きは、待った無しの1本勝負!
両サイドは加勢の一般参加者と声を合わせて力強く一斉に引き合い、なかなか譲らず大勝負で熱戦となり、大歓声の中、審判の勝負合った!の合図で終了。

66年ぶり復活した勝負の綱引きは「前村渠」が戦前の結果に続き、勝ちを決めました!
そしてすぐに「前村渠」チームは、宜野湾ならではの「戻り綱」である勝ち綱を息も荒いうちに全員で持ちあげてグラウンドを駆け回り誇り高い勝ちを披露! 観客からも大拍手が送られました。また、一部の綱を燃やす「カナチ焼き」の儀式も行われました。これは厄払いの意味もあるようですが、郷友会のかたのお話では、元々、松明の灯りの中で行われていた綱引き行事であった為、ヒーヌケーシ(火の返し)の意味合いもあったのではというコメントも。

勝負後は、前村渠も後村渠もみんな一緒になって、昔のようにシュニンモーアシビー(諸人 毛遊び)で唄三線で余興を楽しみ、宜野湾地区独特の婦人部の伝承踊りサングワチャーの貴重な演舞披露や、じのーんイキガー(宜野湾地区の男性)ならではの特徴ある舞方(メーカタ)で復活と無事勝負の行われた喜びの踊りが披露され、会場内は綱引き後も熱気一杯!

会場で見学していた人達の多くが、
「復活が嬉しい」「宜野湾の綱引きを初めて観た」「昔を思い出す」など、各々に感激の夜となり、また、沖縄各地で行われる綱引きでは、勝負後の勝ち綱を切り分けて一部を家に持ち帰りお守りにする風習があり、66年ぶりに復活した「じのーん綱引き」の勝ち綱も縁起ものとして切り取りお守りにしようとする人達がたくさん綱に集まって談笑しながら分け合っていました。
「区民のみんなが喜んでくれたので、今まで準備してきた8カ月の苦労が報われました」と、字宜野湾郷友会副会長の宮城政一さん。
月が美しく輝く明かりの下、皮肉にも米軍基地に奪われかつて綱引きをしていた馬場と集落だった現在の普天間基地の真横に所在する沖国大グラウンドは66年ぶりの復活の喜びの感激で賑やかに盛り上がりました。
祝・66年ぶりの復活・じのーん大綱!
地域の大切な伝統文化が甦ったあとも、これからまた次の代へと脈々と継承されてゆかれる事でしょう。
(文:吉澤直美、編集: KUWA、写真: KUWA&P2)
2007年07月04日
多良間島の節祭『スツウプナカ』[見聞録+体験記]

宮古島と石垣島の中間に浮かぶ多良間島。多良間の祭りといえば豊年祭『八月踊り』が知られますが、もうひとつの豊年祭ともいえる祭祀が『スツウプナカ』(村指定無形民俗文化財)といわれる節祭。前編ではその“スツウプナカの起源”を辿りましたが、後編ではスツウプナカの伝統行事を実際に見聞きし、現場では貴重な体験もさせて頂くことができましたので、レポートしてゆきたいと思います。

いきなり取材現場に直行する前に「この島で、まずご挨拶(お参り)するお宮などはありますか?」と、今回のガイド役となる多良間島観光サービスの富盛さんにご案内頂いたのが多良間神社と運城。そこで「この島の祭祀『スツウプナカ』を取材させて頂きます」とお参りし、気持ちを整えてから取材へと伺わせて頂きました。(そのあと虹が、東と北西の空に2本も)
八月踊りの際は、字仲筋と字塩川と大きく2つに分かれた会場で行われるのですが、スツウプナカではさらに細かく8区に分かれ、祭場も2区がひとつとなって計4箇所で、ほとんどの行事(一部を除く)がほぼ同時に行われます(表1参照)。
またそれぞれの区の中で、役割分担が分かれているのです(表2参照)。

■島の人たちの為にある神聖な伝統行事
祭りとはいっても『八月踊り』のお祭りの雰囲気ともまた違い、島の人たちの為にある、厳かでとても神聖な伝統行事だということ。
祭祀『スツウプナカ』とは、スツ(節)+ウプナカ(神を称える)。
毎年旧暦の5月頃、壬立(みずのえたつ)には、神を祀る『カンガウェー』。
癸巳(みずのとみ)には、人間側の祭り『ピィトゥガウエー』と、2日間にわたり行われています。
(3日目の朝にも行事があり、また午後には反省会と来年の役決めがあります)

祭りの前日に字中筋の集落を歩いていると、どこからか神歌が聞こえてきました。
近年では、カセットテープで神歌を流している地域もあるといいます。でもここで聞こえてくるのは生の歌声。
その歌声がするほうへと近づいてゆくと、第2祭場・フダヤーの老人座の方々が座長の家に集まり、ニル(神歌)の練習をしているところでした。
見学したいという急な申し入れにもかかわらず、有り難くも座敷にまであげて頂き、この祭祀をはじめたウイグスクカンドゥヌを讃えた神歌『ウイグスクカンドゥヌニル』を間近で聞かせて頂くことに。
同じニルであっても、集落によっては歌詞も違えば、また45番まで歌うところもあれば50番を越える地域もあるのです。
また、この伝統行事の中でよく知られている歌は「ヤッカ ヤッカ」(八重ね 八重ね) の囃子歌で知られる『ユノーレガ』ですが、集落によっては必ずしも「ヤッカ ヤッカ」とは歌わず、第4祭場・アレーキの場合は「ヒーヤ!ハーヤ!ハーイ!」という囃子で締め括るのでした。
(↑アレーキの『ユノーレガ』を試聴する。※再生ボタンをクリック)
また、アレーキの場合は、『暁の願い』という行事についても、本来行われていたように24:00過ぎから執り行っているのでした。それだけではありません。
4つの祭場のうち、このアレーキにしか残っていない儀式もあれば、元々はカデカルヌウヤの管轄地域だったということなどのほか、
さらに注目すべきは、スツウプナカのはじまりはアレーキからだったという口碑伝承があるともいいます。
■男性を中心として祭祀集団となる島の節祭
また、特にこのお祭りが特徴的なのは男性を中心として祭祀を司るというところが、琉球諸島の中でも稀な伝統行事だということに注目です。
だからといって女性がまったく参加しないわけではなく、2日目『ピィトゥガウエー』の日には、司(神女)も運城御嶽、泊御嶽、塩川御嶽、多良間神社、普天間御嶽、嶺間御嶽から招待され、各祭場への訪問には村長よりも行列の先頭を歩いてゆくのです。

また祭りの準備の段階では、現在は、供番座の神酒(ミス)作りで協力があるほか、供え物の料理作りなどでも女性も準備に加わっている区もありました。
かまぼこ作りでは、平べったい通常の大きさのかまぼこのほか、細長いかまぼこもあり、第4祭場・アレーキの中老座(この区では供番座も兼ねる)でお話を伺うと、
「浮遊霊や邪鬼が、神様用の供え物のほうに手を出さないようにと、細いほうを祭場の隅に置くんですよ。
そうすると不思議なことに、ほぼ100%魚肉かまぼこなので犬も猫も大好物なハズなのに、浮遊霊のほうの細いかまぼこには一切手をつけないんですよね」とのこと。供え物のかまぼこひとつとっても、しっかりと意味がありました。

■貴重な体験に感謝
また大事な神酒(ミス)作りでは、古い歴史の残る集落のナガシガーの場合、そこの聖地であるカー(井戸)の聖水を一升瓶ぶん使って作っているのです。
今回は、第1祭場・ナガシガーの担当のかたに一緒に連れられて、その井戸の水汲み場まで10m下へと降りてゆく経験をさせて頂きました。もちろん、神を祀る『カンガウェー』の時期を過ぎてからのことでありましたが、とても貴重な体験をさせて頂きました。10m近くも地下になれば、ひんやりとするものではありますが、その澄んだ空気感の中に神聖さを十分に感じ取ることができました。

また、貴重な体験といえば、第4祭場・アレーキの海人座の知念さんや本村さんをはじめ座の皆さんともご一緒させて頂き、追い込み漁を体験させて頂いたこと。やはり、初日の神へと捧げる『カンガウェー』の行事が過ぎてから、そして連日の大漁で十分に賄えるほどに目標を達成したということから、最終日であればということでようやく許可を頂くことができ、追い込み漁の体験参加をさせて頂きました。

とは言っても、その追い込み漁にできるだけ邪魔にならないように端っこで水中カメラを構えるくらいしか出来ませんでしたが、そのわずかな体験で気付かせて頂いた事としては、何よりチームワークの大切さ。この行事で賄う魚の水揚げ量をきちんと確保するため、海人座の方々は泊まり込みでその役目を果たしてゆくのですから。期間中は、食事から一緒になって行動し、団結力を高めてゆきます。

■スツウプナカの原点に、先人たちの智慧、そして宝
また最終日には、地元の多良間中学の1年生が総合学習の一貫として見学に来場していました。お父さんたちをはじめ、先輩がたが行ってきている島の伝統行事を間近に触れることで、将来、きっと誇りに思える宝物になることでしょう。
各座、各区、そして全体がこの行事を通して一体となってゆけること。先人達の智慧が、多良間には今も息づいています。
そして、「感謝の心を忘


