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2008年07月08日

沖縄プロレス特集


沖縄の島には、なかなかプロレス大手の興行がやってこない。
「沖縄に夢のプロレスを」。
地域密着型プロレスで知られる大阪プロレスの創始者であり
プロレスラーのスペル・デルフィンが立ちあがり、
沖縄に地域密着型のプロレスを旗揚げすることに。

スペル・デルフィンと沖縄のつながりといえば、
奥さんが県出身の早坂好恵さんであることも知られるところ。

沖縄県の「ベンチャービジネスサポート事業」にも採択され、
沖縄でほぼ毎晩のようにプロレスの試合が繰り広げられることになった。
→試合日程はコチラから
  7/25以降夏休み&シーズン中はほぼ毎日開催)


常設リングのある会場は観光客にもアクセスがしやすい国際通り。
沖縄の新しい娯楽施設は、地元の人にはもちろん、観光客にも嬉しいところ。

また、試合前のエキシビジョンでは、なんと、
リング上で花笠を被った本場の琉球舞踊が鑑賞できるのも沖縄ならでは。


彼らのリングネームから得意技まで、沖縄にちなんだネーミングが
いちいち面白い!(→選手紹介はコチラから
プロレスの試合ではあるけれど、彼らのエンターテイメント性は、
親子でも鑑賞を楽しめるようなところがいい。

そして「プロレスほど夢を与えられるスポーツはないので、沖縄で夢と希望が溢れる団体にしてゆきたい」と語ってくれたスペル・デルフィンの新しいマスクには、沖縄プロレスのロゴが映える。

なんと、宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999などで知られるあの著名な漫画家・松本零士さんの手によるものだ。

グッズも、そのロゴが入ったオリジナルグッズが充実。
海人TシャツとコラボしたオリジナルTや、
怪人・ハブ男vsミル・マングースの死闘バトルTなどがナイス。

そして選手自らが売り子になり、ファンとの距離感が近いこと。
距離感といえば、全席リングサイド席のような近さなので、
どの席からでも迫力満点の試合が観戦できそうだ。

旗揚げ戦となった7/5には、各プロレス団体からのゲストや
友情出場があり、たとえば現役の女子プロ選手(豊田真奈美選手など)や
ウルトラマンロビン選手の参戦のほか、
会場内には、みちのくプロレス社長の姿も。
(また、獣神サンダー・ライガーからの花輪などもあった)

スペル・デルフィンといえば、たけしプロレス軍団、
大仁田厚がいた頃のFMW、みちのくプロレスなどを経て、
大阪プロレス(そして沖縄プロレス)を旗揚げしたレスラーでもあり、
その交流の深さがうかがえた。

また沖縄プロレス旗揚げの初戦は、いきなり幻のカードだ。
今では禁止となってしまった“ハブvsマングース”のショーがプロレスで復活する。怪人・ハブ男vsミル・マングースという好カード。
旗揚げ戦では、ハブ男に噛まれたミル・マングースのお尻が痛々しい姿になってしまったアクシデント(?!)もあった。
これからもきっと、この因縁の対決は続くのだろう…。

それぞれの試合は、そんなお笑いの要素も含みながらも本格的。
宙高く舞う空中殺法から、スピーディーなロープワーク、
選手たちがぶつかり合うその生の姿は、超ド級。
これぞエンターテイメント!

地元沖縄から来たというお客さんからは、
「面白いですね、またちょくちょく観に来たいです。」
という感想の声も。
試合中の、地元沖縄からのお客さんの野次(声援)も
やっぱり沖縄らしくノリがいい。

スペル・デルフィンは試合後、そして最後にこう語った…   
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2008年04月04日

トルシエ講演会 (後編)

トルシエ革命 (第2話)
FC琉球・トルシエ総監督の“トルシエ革命”とは?
“メイド・イン・オキナワ”構想とは?
昨日掲載された[前編]に続いて、熱い語りが続きます。

トルシエ革命。そして“メイド・イン・オキナワ”構想
トルシエ:3月から私たちのリーグ戦が始まっています。このリーグ戦の中でトップ10に入りたいという目標があります。
(3月30日にはホームの試合で今シーズン初勝利しました)
まだ30試合残っています。30試合というのがどういうことなのか、1試合の勝ち点[3点]が取れれば、全部で90点が残っているということなんです。それを夢に終わらず、現実のものとして最高の結果を出してゆきたい。そして3年でJ2を目指します。

高いレベルを目指すとなると、自分自身のベストを出してゆかなければなりません。
これから私たちが目指す道のりには予期せぬ出来事もあるかもしれません。もし失敗してもそれをバネにして成功につなげてゆく。どんな状況にあっても私たちは精神力というものを高く保って、進むべき方向性を決して誤ってはいけないのです。そしてその目標に向かうのに皆さんにもついてきて欲しい。

では、FC琉球は、今はどこまで来ているのでしょうか。まだアイデンティティがはっきりしているとはいえないかもしれません。クラブというのは名ばかりで若いチームなのかもしれません。でも、モチベーションも高まっていてヤル気もある、そんなチームです。
もし試合に負けたとしても、そこから学ぶこと。勝った試合よりも学ぶことは多かったりもします。そして、そこから進歩してゆくこと。

でも、私は魔法使いではありません。努力こそが何よりも大切です。トルシエ革命とは、私一人でやるものではなくて、みんなの力で興す革命です。
その構想とは“メイド・イン・オキナワ”。この大構想に皆さんもぜひ参画してください。お待ちしています。

まずはJ2昇格を3年で達成したい。そしてスタジアム構想
トルシエ:また、J2に昇格するには環境を整えることも大切です。Jリーグ(社団法人日本プロサッカーリーグ)が規定する規模の公用サッカースタジアムのことです。
その規定に見合ったサッカースタジアムが、実は沖縄にはまだ存在していないんです。

どんなに頑張ってうちのチームがJ2に昇格することが今決まっても、「でも、まだ沖縄にはスタジアムが無いじゃないか」と言われたら、J2に上がることも出来なくなってしまうんです。つまり1万人規模のお客さんが座って観戦できるスタジアムが無いと、昇格条件を満たさないという現実があるのです。
だから、J2、そしてJ1に向けてスタジアムが必要なんだという議論が巻き起こってもいい頃だと思うのです。

情報を発信し、夢を共有してゆきたい
トルシエ:クラブの顔というのはひとつのアイデンティティーというものを作り上げてゆかなければなりません。
FC琉球にはひとつの“家”が必要です。クラブとはどういう所なのか、人々が集い、交流の場であり、いろいろなものを共有し、信頼関係があり、そして楽しい場所でなくてはなりません。

また、サポーターにとって“誇り”のチームでなければならないのです。
その為にも、勝ちにゆくサッカー、とことんまで力を尽くすサッカーという姿を通して、「自分たちと同じだ」と、FC琉球は「自分たちのチーム」なのだと投影できるように。

また、FC琉球は地域や学校と一緒になって頑張ってゆきたいですし、情報も発信してゆきたい。その為にも地元新聞社(沖縄タイムス)に私自身が時々書かせて頂くことになりますし、そして、FC琉球のホームページもぜひご覧ください。これから何をやっていきたいのかを伝えてゆきたくて作りましたので、どうぞご覧ください。

沖縄に夢を。そして一緒に、その夢を実現化してゆきましょう
トルシエ:沖縄の人々は団結力があり、努力もあり、心を開き、そしてとても寛大で、誇り高い人たちだと思っています。
そして、沖縄には不可能の言葉は無いことを信じています。

クラブがJ1に上がったら具体的にどうなってゆくのか。
例えば、日本を代表する一流の選手達をチームに迎えることも出来るのです。

J1のクラブが入るという事はつまり、FC琉球vs名古屋グランパス、FC琉球vs横浜Fマリノス、FC琉球vs東京ヴェルディ、FC琉球vsガンバ大阪、という試合を観に、何千というサポーターが沖縄にやってくるのです。もちろん経済効果も凄いものになることでしょう。

そしてまた、沖縄の青少年たちもJ1のクラブが地元に出来るようになったら、そのチームを目指し、人が集まってきます。

“メイド・イン・オキナワ”、トルシエ革命はもう始まっているのです。
大きく志を持って、沖縄のこの地に、ビッグクラブを作ってゆくためには努力が必要なんです。この大構想を一緒になって作ってゆこうではありませんか。   
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2008年04月03日

トルシエ講演会 (前編)

トルシエ革命 (第1話)
2002年、ワールドカップの日本代表チームを率いたフィリップ・トルシエ監督が沖縄に! FC琉球の総監督として、再び日本へ戻ってきた。夢を沖縄から実現させてゆく“トルシエ革命”の構想とは?
FC琉球総監督としてのトルシエ講演会『沖縄からの挑戦 大いなる船出が今始まる』(主催:沖縄タイムス社、共催:琉球スポーツキングダム、県サッカー協会)が、3月26日に沖縄県立郷土劇場で行われました。その講演を通して、沖縄から“トルシエ・メッセージ”を発信してゆきたいと思います。

FC琉球の総監督にフィリップ・トルシエ氏
トルシエ:皆さんがご存知の『FC琉球』というクラブチームはまだこれからの未来ある若いチームですが、2003年に勢いのある野口必勝社長によってクラブ設立し、夢はこのJリーグであるトップリーグJ1昇格を目指しています。そして、FC琉球が一番最強のチームと互角に戦ってゆけること。
また、その試合を観に沖縄に何千人という人々が訪れてくれたらという希望を持ち、その情熱をサッカーで伝えてゆけたらと思っています。
そして、その夢に向かう為には“革命”が必要なのです。

トルシエ革命とは
トルシエ:私自身は、2002年のワールドカップで日本代表を率いたという実績を持っています。その経験をもとにまた日本のサッカー界に戻ってくることもいつかあるだろうと思っていました。
それがまさか自分自身も“沖縄へ”戻って来るとは思ってもみなかったことでした。もちろん、FC琉球の求めに対して“YES”と返事しました。それは、FC琉球をビッグなクラブチームに育て上げてゆく為にです。
サッカー的な面からも文化的な面からも、それは壮大な冒険物語を皆さんと築いてゆけたらと思っています。そしてここに“トルシエ革命は始まった”のです。

5年間でJ1昇格を目標に
トルシエ:監督という仕事は、情熱があって、信念があってこそできる仕事なのです。また正直、先の見えない仕事でもあり、日々これでいいのかと葛藤しなければいけない仕事でもあるのです。私はサッカーの世界ではもう30年以上それに携わっています。そして、賭に出ること(勇気を持って挑むこと)が好きなのです。情熱・信念・経験、そして私に信頼を寄せてくださる人々、この構想に共感できる人々とご一緒したいと思ったのでした。

そして、このプロジェクトというのは5年に及ぶ構想です。しっかりしたクラブを作り、まずは3年でJ2に昇格し、トータルの5年間でトップリーグのJ1へと上がってゆく事。それも夢だけではない現実的な構想なんです。それを果たす為、私自身が沖縄のチームの一員となりました。そして、沖縄の皆さんと共に。

トルシエ氏の役割
トルシエ:私自身は総監督という立場でチームを率いてゆきます。まずはサッカーの技術面でしっかりと指揮してゆく方針です。そして、どういった概念で今回の構想を作ってゆくか、つまり、概念設計を組み立てる役割でもあるんです。
その為に、チームメンバーやスタッフを選んでゆきたいと思います。その現場にはジャン・ポール・ラビエ監督が率います。そして、いい結果を出してゆけるように、全力を尽くします。   
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2008年03月28日

琉球ゴールデンキングス・友利健哉物語:インタビュー[後編]

琉球ゴールデンキングス・友利健哉物語[後編]
「島だからこそ出来る。
 そんな希望を与えられるようになってゆくことが、
 それが一番の島への恩返し。」

——先週のインタビュー前半に続いて、友利選手がプロのバスケ選手になる直前までのエピソードもぜひ語って頂けますか。

友利健哉選手:僕は工業高校だったので、高校の先生からは地元の沖縄電力に就職しないかとも勧められたんです。
でもお姉ちゃんたちに相談したら、「あなたは電力会社に入りたくて、その高校に入った訳ではないでしょう? 自分のしたいこと(バスケ)を続けなさいよ。人生に一度は島を出て東京や関西などにも行ってみたほうがいい」と言ってくれて、僕は5人兄妹の末っ子なのですが、4人のお姉ちゃんたちにも支えられて、僕の行きたい高校や大学に進学させてくれました。

——そうやって家族みんなに支えられたんですね。

友利健哉選手:はい。また大学も専修大学から声を掛けてもらって、僕からしたら「なんで僕に声を掛けてくれたんだろう?」って思っていたんです。その時はじめて僕を「いい」って言ってくださったのがその大学の監督である中原さんからだったんですが、僕を選んでくれた理由のひとつに人間性をみてくれていたのが何より嬉しかったです。

姉たちからは「島を出て、日本一になりなさい」と言われていたんですが、監督も同じように「一緒に、日本一を獲らないか」と。また「日本の中心である東京へ」と、それもまったく同じことを言われたんです。

そして大学では、いろんな事を中原さんから教わりました。例えば、
「男・女である前に、上下関係である前に、人対人として付き合え」などなど、“人間として”という大切なことを教わり、僕も人として成長させてもらいました。

大学の最後の年は、ずっとチームは負け通しだったんですよ。それでも「結果はこうだけど、“過程こそ大事”だぞ」とか。
バスケを通して高校・大学と恩師に恵まれましたし、人間的にスケールの大きい方々とも巡り会うことができました。

——それででしょうか。キングスの試合では、小柄なのに大きさだけでは負けないような突破力につながるようなものを持っていらっしゃるような。

友利健哉選手:やっぱり負けたくないですよね(笑)。
僕が小さい頃、本島などで活躍している島出身の先輩たちをみて、「こんな小さな島からでも出来るんだ」って思っていて、“物理的な大きい小さいだけじゃない”って、それに勇気づけられ、希望を持てたことは大きかったですね。

“島だから出来ない”ではなくて“島だからこそ出来る”と思っているし、本土の人にも本島の人にも負けたくないって頑張ってきました。
僕らキングス・スタイルのプレーを通して観てもらえたら、そして“感じて”もらえたらと思っています。

今は自分がこういう立場になって、夢を与えられるような職業をしているんじゃないかと思いますし。ですので、小さな子ども達にも今度は希望を与えられるようになってゆくことが、それが一番の島への恩返しだと思っています。   
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2008年03月21日

琉球ゴールデンキングス・友利健哉物語:インタビュー[前編]

琉球ゴールデンキングス・友利健哉物語:インタビュー[前編]
バスケットボールといえば大きな選手が多いなか、小柄でも大きくて強いハートの友利健哉選手(伊良部島出身)。人柄あふれるハートフルな友利選手の琉球ゴールデンキングス・インタビューを連載してゆきます。

「島の手作りバスケットリングの下で、
 真っ黒に日焼けするまで一日中
 バスケやっていましたね」

——友利選手は、宮古の伊良部島出身とのこと。美しい海に囲まれた伊良部島で過ごしてきた少年時代、またバスケとの出会いをぜひ聞かせてください。

友利健哉選手:僕が子供の頃は、伊良部島で遊ぶといってもゲームセンターとかあるわけではないし、海とか自然の中で遊んでいました。おにぎりだけ持参して、自分たちで釣った魚をその場で焼いたり、サザエとかを捕って食べたりとか。
僕らは幼稚園児の小さい子から中学生のお兄ちゃんまでが全員一緒になって遊ぶんです。お兄ちゃんたちを中心に遊びを企画して、例えば、肝試しをやったり、缶蹴りをやったり。そういった遊びの中に、もちろんバスケもあったんですよ。みんな負けず嫌いだから最終的にはケンカして終わるんですけどね(笑)。

——小さい頃からの身近な遊びの中にバスケがあったんですね?

友利健哉選手:島にはスポーツ店のような専門店はないので、自分たちでバスケットリングを作りましたよ。例えば、いらなくなった子供用の自転車がありますよネ、そのタイヤがちょうどいいサイズで針金のスポークを全部抜いてバスケットリングにして、また当時の島の電信柱は木製だったので、釘で打ちつけたら即席のリングが出来上がったんです。

それが少し上等になるとバックボードを付けたりとか、僕たちの島は漁も盛んなので、お父さんたちからいらなくなった漁網をもらってきてネットにしたり、そうやって出来上がったバスケットゴールを低めに設置してダンクシュートして遊んでいましたね(笑)。

小6の頃には、お父さんが綺麗にバスケットリングを作ってくれたので庭でバスケをやって遊んだり。そうやって一日中バスケして遊んでいたので、頭皮まで真っ黒に日焼けした事もあるくらいでした(笑)。

——家族にバスケ選手だった人がいるんですか?

友利健哉選手:お姉ちゃん2人のほか、お母さんもバスケをやっていたみたいです。それも最近実家に帰省した際に分かった事なんですが、実は僕と同じ背番号『10』なんですよ。
お姉ちゃんたちが背番号10だったのは知っていたのですが、まさかお母さんまで10番だったとは知りませんでした。

——そして友利選手が背番号『10』を付けた理由というのは?

友利健哉選手:“ここから”を出発地点にして『0』、そしてナンバーワンになりたいと『1』の数字を組み合わせて『10』番なんです。
だから琉球ゴールデンキングスで背番号10なのは“きっと私と同じだから”とお母さんは思っていたのかもしれません(笑)。

大学4年の時も自分で好きな数字を選べたので『1』にしていました。それは、1日1日、1つ1つをコツコツと積み上げていったら『1』番なれるという信条があって、その数字を背負っていました。(↓)   
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